8話
第8話 公爵邸、噂は王都を駆け巡る
翌朝。
レティシアが食堂に入ると、なぜか全員が正座していた。
普段は朝食の準備で慌ただしいはずの食堂が、今日は異様な静けさに包まれている。
椅子はきちんと机に収められ、テーブルの上には湯気の立つスープが並んでいるのに、誰一人として手をつけていない。
まるで処刑宣告を待つ囚人のような空気だ。
「何をしているんですか?」
レティシアが尋ねると、ドロシーが涙目で叫んだ。
その声は、まるで世界の終わりを告げるかのように震えていた。
「レティ大変よ。王都で鉄血公爵が雑用係に恋したって噂が流れてるの」
「はああああああああああああああああああああ!?」
レティシアは思わず椅子を蹴り飛ばした。
椅子は派手な音を立てて床を滑り、壁にぶつかって止まる。
「誰がそんなデマを!」
「ウォーレス様よ」
「やっぱりあの人か!!」
レティシアは頭を抱えた。
脳裏に、あの貴公子のにやけた顔が浮かぶ。
彼ならやりかねない。むしろ、やる。
その時、食堂の扉が優雅に開いた。
「おはよう、レティシア嬢」
噂の発信源が、紅茶を片手に現れた。
ウォーレスはまるで自分のせいで大騒ぎになっているという自覚が一切ないような、爽やかな笑顔を浮かべている。
「ウォーレス様。どうしてそんな噂をしたのですか」
「事実を言っただけだよ」
「どこが事実ですか!」
「だって、ヴィクトールが君を見てる時の顔、完全に恋する青年だったからな」
「やめてください!!」
レティシアは耳まで真っ赤になった。
その横で、ヴィクトールが静かに立ち尽くしていた。
彼は紅茶のカップを持ったまま固まり、まるで自分の感情を初めて知った少年のような顔をしている。
「恋する青年」
「閣下、聞いてたんですか!」
「聞こえた」
「忘れてください!」
「無理だ」
「無理じゃないです!」
ウォーレスは楽しそうに紅茶をすすった。
その仕草は、完全に混乱を楽しむ観客である。
(この野郎!)
レティシアは心の中でテーブルをひっくり返した。
◆
食堂を出た後も、屋敷の空気は落ち着かない。
廊下のあちこちでメイドたちがひそひそと囁き合い、レティシアが通るたびに視線が集まる。
(視線が痛い)
そんな中、ヴィクトールが勢いよく廊下に飛び出してきた。
「レティ。今日の決定的状況作戦・第三段階だが」
「やめてください」
「まだ何も言っていないが」
「言わなくてもわかります」
「では、言う」
「言わないでください!」
「言わせてくれ!」
「嫌です!」
公爵、誤解を拡大させる。
廊下の角から、メイドたちがキャーキャーと悲鳴を上げている。
完全に恋愛ドラマの修羅場を見ている観客の目だ。
(この屋敷、もう末期だわ)
レティシアは深いため息をついた。
◆
その時、玄関ホールに重々しい声が響いた。
屋敷全体が一瞬で静まり返る。王宮からの使者が到着したのだった。
「ラインハルト公爵閣下にお伝えする!」
王宮の紋章をつけた使者が現れた。
レティシアは反射的に背筋を伸ばす。
王宮の使者は、いつ見ても威圧感がある。
「王宮より通達。雑用係レティシアの働きぶりが王都で話題となっているため、王宮雑務局より正式に評価を行いたいとのこと」
「は?」
レティシアは固まった。
頭の中で、理解が追いつかない。
「なんで私が王宮に?」
使者は胸を張って言った。
「鉄血公爵の寝起きを改善した英雄として、王宮で噂になっております」
「そんな噂いらない!!」
レティシアは叫んだ。
その声は、屋敷中に響き渡った。
◆
「レティ、すごいじゃない!」
「王宮デビューよ!」
「雑用係から王宮入りなんて、前代未聞よ」
屋敷はさらに誤解が進んでいた。
「閣下の恋人枠として呼ばれたのでは?」
「違います!!」
レティシアは全力で否定した。 メイドたちの目は完全に恋人枠のそれである。
(お願いだから、誰かこの誤解を止めて)
しかし、止めるどころか、誤解は加速するばかりだった。
◆
「レティ王宮に行くのか?」
ヴィクトールが、まるで捨てられた大型犬のような顔で尋ねてきた。公爵はその話で動揺している。
「行きません」
「本当か?」
「本当です!」
「よかった」
ヴィクトールは胸を押さえた。
その仕草は、心臓を押さえる恋する青年そのものだ。
「閣下、そんなに心配だったんですか?」
「レティがいなくなると、朝起きられない」
「理由が最低です」
「違う。それだけではない」
「では何ですか?」
「言えない」
「言ってください!」
「言えない」
ウォーレスが横から口を挟む。
「恋だよ、恋」
「黙れ!!」
公爵の怒号が屋敷に響き渡った。
その声は、屋敷の窓ガラスを震わせるほどだった。
◆
その日の夕方。
レティシアが洗濯物を干していると、ウォーレスが静かに近づいてきた。
夕日が差し込む中、彼の表情は珍しく真剣だった。
「レティシア嬢。もう一つ、伝えておくことがある」
「なんでしょう?」
「ギルバート・ラングレイ伯爵家が、君の失踪を問題視し始めた」
「失踪?」
ギルバートの影を感じてしまう。
「君が公爵邸にいることは、まだ知られていない。でも、時間の問題だ」
レティシアは洗濯物を握りしめた。
布がくしゃりと音を立てる。
(来るのね、あの人が、ああああ)
胸の奥が、冷たく沈んだ。
忘れたはずの痛みが、また顔を出す。
◆
「レティ、いつもの洗濯物は終わったかい」
突然の大声に、レティシアは肩を跳ねさせた。
「閣下、静かにしてください」
「なぜだ」
「今、重要な話をしていたんです」
「誰と?」
「ウォーレス様と」
「なにを!」
ヴィクトールの表情が、また氷点下まで落ちた。 視線は、ウォーレスに向けられた刃のように鋭い。公爵は乱入する。本日二度目だった。
「ウォーレス。レティから離れろ」
「やだ」
「やだ、じゃない!」
「だって、君が嫉妬するの面白いし」
「ウォーレス!!」
今日二度目の怒号が響き、屋敷中のメイドが悲鳴を上げた。
◆
(本当に、変な屋敷)
レティシアは決意のような思いをした。
(ここでなら、私過去に負けずに進めるかもしれない)
レティシアは、そっと微笑んだ。
その笑みは、ほんの少しだけ、昨日より温かかった。




