3話
第3話 鉄血公爵
鉄血公爵ヴィクトールの朝は、相変わらず低血圧は選ばれし者のセオリーという謎の格言から始まる。
しかし、新人雑用係のレティシアによる物理的な頬っぺた引っ張り刑を処されて以来、覚醒速度は劇的に向上したという噂が、邸内を駆け巡っていた。
「よくやったわ、レティ! あんたは我が公爵邸の救世主よ!」
食堂で、山盛りのシチューを前にした先輩メイドのドロシーが、レティシアの肩をバシバシと叩いた。
「救世主だなんて、大袈裟です。ただ、あまりに起きないので肉を摘んだだけですから」
レティシアが淡々とパンを口に運ぶと、隣に座っていた同僚のエリンが、身を乗り出して小声を出す。
「いいえ、大袈裟じゃないわ! だって閣下ったら、今までは起こしに行くと僕の脳はまだ冬眠中なんだとか言いながら、不意打ちでこっちの手を握って、ニヤリと笑って添い寝してくれる、なんて言ってたのよ」
「まあ、なんてタチの悪い」
レティシアは眉をひそめた。まさに華々しい女性関係を地で行く遊び人ではないか。
ところが、ドロシーは鼻を鳴らしてそれを否定した。
「それがねぇ。あの顔でそんなこと言うから、こっちは心臓が爆発しそうになるんだけど。当の本人は、直後に本気で寝落ちするのよ。確信犯じゃないの、ただの寝ぼけた超絶美形なのよ。あの方はねぶっちゃけ、中身は真っ白なのよ。二十三歳・現役バリバリの公爵なのにね」
「はあ?」
レティシアの手が止まる。
ドロシーいわく、ヴィクトールは王宮騎士団時代に騎士道精神という名の呪いに脳を焼かれ、結婚するまで清廉潔白を貫くという古めかしい誓いを立ててしまったらしい。
「だから、お母様の前公爵夫人が心配しちゃってね。あそこにいる色気ムンムンの侍女カトリーヌ様も、実は閣下を男にするために送り込まれた刺客だったのよ」
指差す先には、亜麻色の髪を揺らす妖艶な美女がいた。彼女ですら落とせなかったのか、と驚くレティシアに、エリンが泣きそうな顔で付け加える。
「私も夜のお誘い係として雇われたんだけど、閣下ったら私が寝室に忍び込んだ瞬間、寝ぼけ眼で、風邪を引くから、これを着て早く帰りなさいって自分の毛布を私に巻きつけて、部屋の外までエスコートしてくれたの。優しすぎて、逆に死にたくなったわ」
「はああ?」
レティシアは確信した。この主人は、天然のタラシである。それも、無自覚という一番厄介な種類の。
「結局ね、閣下には二年前から忘れられない運命の人がいるらしいのよ」
ドロシーの言葉に、レティシアの心臓がわずかに波打った。
夜会で一度見かけただけの女性に恋い焦がれ、彼女には好きな人がいるから、自分は遠くから見守るだけでいいと、山のような縁談を全てシュレッダーという名の物理的な破棄にかけ続けているのだという。
「だから、あんたが寝台に引きずり込まれたって聞いた時、私らはお祭り騒ぎだったのよ。ついに閣下が運命を上書きしたのかと思って」
「期待に沿えず、申し訳ありません」
レティシアは冷めたスープを見つめた。
二年の片思い。それは、長年の恋を一方的に踏みにじられた自分にとっては、眩しすぎて直視できないほど純粋なものに思えた。
(セシル閣下。あなたは片思いで、私は失恋。重苦しい公爵邸だこと)
レティシアは自嘲気味に笑った。
自分を信じてくれなかった元婚約者。彼への未練はない。ただ、彼を愛した長年の月日が、私には価値がないという呪いとなって、今も心の底に沈殿している。
「レティ? どうしたの、暗い顔して。ああ、わかったわ! あんた、閣下に惚れちゃダメよ。あの人は騎士道の塊だから、一度懐に入れると執着がすごそうだし」
「安心してください、ドロシーさん。私の心はもう、北極の氷山より冷え切っていますから」
レティシアは最後の一口を飲み込み、空になった器を見つめた。
彼女がこの邸に来たのは、傷を癒すためではない。
「私の目的は、ただ一つ」
長年の恋を台無しにした男爵令嬢という皮を脱ぎ捨て、この鉄血公爵邸で、誰もがひざまずくような最強の雑用係に成り上がること。
そしていつか、自分を捨てた者たちが、雑用係である自分の足元にも及ばないことに気づいて絶望する姿を見るためだ。
そのためなら、主人の寝起きの悪さも、面倒な騎士道も、全て利用してやると心に決め、彼女はキビキビと立ち上がった。
「さて。次は、閣下の軍服のボタンを付け直す任務に戻ります」
その背中に、ドロシーたちが、やっぱりあの娘、只者じゃないわねと戦慄の視線を送っていることには、気づかないふりをした。




