2話
第2話 鉄血公爵
レティシアが奉公先に選んだのは、ラインハルト公爵家だった。
元婚約者、ギルバート・ラングレイ伯爵嫡男があいつは人間ではない、戦いの化身だと恐怖と共に語っていた宿敵の門を叩いたのである。
現当主ヴィクトール・フォン・ラインハルトは二十三歳。
三年前まで近衛騎士団の若き獅子として君臨し、叙任式と同時に公爵位を継承した傑物だ。
レティシアが耳にした噂では、彼は女性を戦術の駒としか見ていない冷血漢だの、美貌すら獲物を油断させる武器にするだの、とにかく物騒な話ばかりだった。最低な噂であった。
(元婚約者がそれほど嫌っていた相手なら、私にとっては最高の避難所だわ)
以上が、レティシアの握っていた主人の情報である。
「あの、閣下。いい加減、床から起きていただけませんか」
ラインハルト公爵邸の主寝室。
深紅のカーペットに額を擦り付け、土下座という異国の謝罪様式を完璧に披露しているのは、王国の盾と称されるヴィクトールその人だった。
目の前で湯気の立つ洗面器を持ち、冷ややかな視線を送っているのが新人雑用係のレティシアである。
「無理だ! 私の騎士道が今この瞬間に消えた! 貴殿いや、レティシアと言ったか。君の清らかな朝を、この醜態で汚してしまった!」
淡い銀髪が床に広がる。伏せられたまつ毛 は長く、顔立ちは戦神のように整っているが、言動が致命的に情けない。
「起きてください。仕事が進みません」
レティシアは溜息を吐いた。昨日までの自分なら、公爵の美貌に頬を染めたり、土下座に狼狽えたりしたかもしれない。だが今は違う。長年の恋を捨てた女である。心臓に毛が生えたというより、一度凍らせたような感覚だった。
「構わないだと? なんという慈悲深さいや、私のような男に興味すらない証か!」
(面倒くさい主人ね)
レティシアはこめかみを押さえた。発端は一刻前にさかのぼる。
公爵邸での初仕事。
主の目覚めの湯を運び、カーテンを開ける。寝台で眠るヴィクトールの顔は、彫刻のような美しさだった。銀色の髪は月光を吸い込んだように輝き、肌は冬の朝の空気のように白い。
元婚約者ギルバートの、どこか頼りなさを残した甘い顔立ちとは、積み上げてきた鍛錬の質が違う。
(二物も三物も与えられた人に、悩みなんてあるのかしら)
皮肉を胸にしまい、レティシアは仕事に取り掛かった。
「閣下、朝でございます。起きてください」
応答はない。
肩を軽く揺さぶる。
「ヴィクトール閣下。軍務に差し障ります。起きてください」
すると、主はうわ言のように呟いた。
「低血圧なんだ。血が頭に回るまで、脳は死んでいる」
「死んでいても構いませんので、身体だけ動かしてください。朝食で血も巡ります」
「低血圧は、選ばれし美形にのみ許された特権なんだ。今、それを行使している」
(はあ?)
外での鉄血の異名はどこへ行ったのか。レティシアは無表情のまま、この男を物理的に動かす必要があると判断した。
寝具を一気に剥ぎ取る。
次の瞬間だった。
「寒い温もりが、要る」
ヴィクトールは目を閉じたまま、レティシアの手首を掴み引き寄せた。
抗う間もなく視界が反転する。気づけば、ふかふかの寝台の上、公爵の腕の中に閉じ込められていた。
「ななっ!」
さすがに絶句した。耳元で規則正しい吐息が響く。
婚約者とさえ、ここまで密着したことはない。本来なら悲鳴を上げる場面だが、脳裏に浮かんだのは別の恐怖だった。
(ここでクビになったら、実家に戻されてギルバートの顔を見る羽目になる)
怒りよりも深い拒絶。
(耐えなさい、レティシア。これは重石。高級な重石よ)
鉄の意思で無心を貫くこと数分。
ようやく覚醒したヴィクトールは、自分の腕の中に無表情な雑用係がいると気づき、文字通り跳ね起きた。
そのまま寝台から転げ落ち、流れるように土下座を始めたのである。
「本当にすまない。他意はない。君を使い慣れた抱き枕か何かと勘違いしていた」
「抱き枕。光栄です」
「嫌味にしか聞こえない! 頼む、何か罰を。給金カットでも、頬を叩くのでも構わない!」
翠の瞳を潤ませて見上げてくる姿は、戦場の獅子というより叱られるのを待つ大型犬のようだった。
レティシアは仕方なく、彼の両頬を指でむにゅっと強く挟む。
「ひひゃい」
「これで手打ちにします。今後は特権を使わず、三回以内の呼びかけで起きてください。よろしいですね?」
ヴィクトールは頬を赤くし、情けない顔で、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。
「ああ。約束しよう」
その時。
寝室の扉が音もなく開き、教育係の雑用係・ハンナが立っていた。
頬を掴まれたまま見つめ合う主と新人雑用係。
ヴィクトールは頬を染め、レティシアは上目遣いで制裁している構図。
「あの、ハンナさん。これは教育の一環で」
説明も虚しく、ハンナは無言のまま、静かに、しかし力強く扉を閉めた。
「「あ」」
二人の声が重なる。
公爵邸の朝は、外聞よりずっと騒がしく、そして恋を捨てた令嬢にとって、予想以上に退屈しない場所になりそうだった。
(追い出されるわけにはいかない。絶対に)
レティシアは心の中で自分に言い聞かせる。
この家で有能すぎる雑用係として名を上げ、いつか自分を捨てた者たちを、使用人という立場から見下ろす。その野望のために。




