1話
第1話 絶望のその先
「もう、十分でしょう?」
レティシアは、鏡に映る自分へ問いかけた。
まぶたは腫れ、頬はこけ、大切に育んできた恋心は、泥靴で踏みにじられたように無残だった。
幼馴染のギルバートにしがみ付いた日、彼は冷たく言い放った。
『君のような執着心の強い女は恐ろしい。彼女の清らかさを見習ったらどうだ』と。
無実の罪を着せられたにもかかわらず、両親さえ彼女を家門の汚点として扱い、救いの手は差し伸べられなかった。
長年、人生のほとんどを彼に捧げ、彼の好む淑女であろうと努力し続けた時間は、何だったのか。
ああ、馬鹿馬鹿しい。
ぷつり、と。心の奥で何かが弾けた。
悲しみは一瞬で蒸発し、後に残ったのは、煮えたぎるような虚しさと、執念だった。もう決めたわ。
「お父様、お話があります」
レティシアは、書斎で青い顔のまま帳簿を眺める父・カシアンの前に立った。
父は娘の姿を見るなり、びくりと肩を揺らす。
「レ、レティシア。ギルバート殿とのことは、その、運が悪かったとしか」
「いいえ、運の問題ではありませんわ。お父様。私は今日、この瞬間をもってアレン男爵家の令嬢を辞めます」
カシアンは手にしていたペンを落とした。
「な、何を。破談になったからといって、自暴自棄になるな。別の縁談を」
「縁談? 一度汚名を着せられた男爵令嬢に、まともな話が来るとお思いで? 私はもう、誰かの所有物として品定めされるのは御免です。ですから」
レティシアは、自慢だった腰までの金髪を、護身用の短剣で迷いなく切り落とした。
床に散らばる長年の象徴。驚きで口を開閉させる父を、冷え切った瞳で見下ろす。
「私、雑用係になります」
「我が家の使用人として、修行でもするのかい?」
「いいえ。そんな生ぬるい真似はいたしません。黒鉄の獅子ラインハルト公爵家へ奉公に上がります。紹介状はすでに手配済みです」
父の顔が、土気色を通り越して真っ白になった。
ラインハルト公爵家。王国の盾であり、冷酷無比な家主が支配する、貴族が最も恐れる処刑人の家系だ。
「な、正気か! あそこは王家の犬と言われるほど厳格な家柄だぞ! 並の令嬢が行けば、三日で精神を病むと言われている!」
「結構なことではありませんか」
レティシアは、春の陽だまりのようでいて、底冷えする微笑を浮かべた。
「泥水を啜る人生なら、せめて最高級の黄金の器で啜りたいのです。失恋の傷に浸る暇もないほど、地獄のような労働を与えてくださいませ」
「レ、レティシア待ちなさい、相談を」
「お父様、一つだけ忠告です。これからは私のことをレティシアと呼ばないでください。私は今日から、ただの雑用係。さようなら、無力だった私のお父様」
淑女の礼ではなく、教本で覚えたばかりの使用人の一礼を完璧にこなし、彼女は部屋を去った。
背中に、長年の未練は一片も残っていなかった。




