4話
第4話
ラインハルト公爵邸の庭園は、広く、恐ろしいほどに美しかった。
寸分の狂いもなく刈り込まれた芝生は、深い緑と淡い緑の市松模様。まるでファンタジーの世界だが、今のレティシアにとってはただの迷宮でしかなかった。
現在の時刻、朝六時。
レティシアは、霧に包まれた庭園のど真ん中で立ち尽くしていた。
今日は非番。朝の公爵叩き起こし任務がない彼女は、食品室の師匠マルタに珍しい菓子の製法を教わりに行った帰りだったのだが。
「くしゅんっ!」
可愛くないくしゃみが霧に吸い込まれる。視界は真っ白。
(迷ったわ。自分の奉公先で遭難して凍死なんて、15年の恋を捨てた女の末路としては情けなすぎるわ!)
空腹と寒さで思考がネガティブな方向へ加速する。
前向きに歩き出そうとした瞬間、ごつんっ、と硬い何かに激突した。
「痛っ! 額が割れたかしら」
「大丈夫かい? レティ」
背後から響いたのは、この時間に寝台で脳が冬眠中なんだとボヤいているはずの、鉄血な主人の声だった。
(幽霊? 衝撃で脳がバグった?)
困惑するレティシアの手を、何かが強引に引いていく。
連れて行かれたのは、巨大な温室だった。
そこには、朝食代わりか、湯気を立てるティーポットと色とりどりのマカロンが並んでいた。
「本物の、ヴィクトール閣下ですか? 幻影の類ではなく」
レティシアが疑いの眼差しを向けると、公爵は片眉を上げて首を傾げた。
「本物だよ。私の幻影が庭で新人雑用係を拉致するような邸なのかい、ここは」
「いえ。ただ、閣下がこの時間に自力で直立しているのが信じられなくて」
「今日は君が非番だろう? だから、その、早起きをして待っていや、散歩をしていたんだ」
(私を呼び出す時は九時まで寝ているくせに!)
という恨みを込めてレティシアは睨んだが、公爵はそれを麗しい微笑で華麗にスルーし、椅子を引いた。
「座りなさい。霧が晴れるまで、お茶にしよう」
「閣下、私は雑用係ですから同席など」
「主の命令だ。それに、一人で食べるマカロンほど寂しいものはない」
目の前に置かれたのは、レティシアが密かに愛してやまないミルクたっぷりの紅茶とピスタチオのマカロン。
(どうして私の好物をピンポイントで?)
疑いながらも、寒さに負けて一口。アーモンドの風味が広がり、レティシアの頬が緩む。
「おいしい」
「ふふ、そうだろう。君は本当においしそうに食べるね」
公爵は満足げに笑うと、突然立ち上がり、自分の上着を脱いでレティシアの肩にかけた。
「あ、閣下、お風邪を!」
「いいから。髪が濡れているじゃないか」
ヴィクトールはレティシアの背後に回り、大きな手と自分の袖を使って、彼女の髪を拭き始めた。
乳母がしてくれたような、慈しむような手つき。長年の片思い中、一度も経験しなかった子供扱いという名の特別扱いに、レティシアの顔がみるみる熱くなる。
「せっ、閣下! 髪をほどくなんて、ふしだらです!」
「このままでは風邪を引く。ほら、じっとして」
髪に神経は通っていないはずなのに、彼が触れる場所が熱い。
やがて一通り拭い終えると、公爵は満足げに真正面の席に座った。
「袖、濡れてしまいましたね。申し訳ありません」
「すぐに乾くよ。それより、お茶を飲んで温まりなさい。霧が晴れるまでは外を歩くのは危険だ。今の君は、放っておくとどこかへ消えてしまいそうだからね」
その言葉に含まれた、妙に切実な響き。
レティシアはそれを新人教育が面倒だからだろうと強引に解釈し、照れ隠しにマカロンをもう一つ口に放り込んだ。
(この主人、寝ぼけていない時は、恐ろしいほどに紳士だわ。危ない、危ない)
霧の温室は、外の世界から切り離された聖域のようだった。
長年の恋を捨てた女と、2年の片思いを拗らせている公爵。
奇妙な主従のティータイムは、温かなミルクティーの香りと共に、静かに過ぎていった。




