22話
第22話 影の名、夜を裂く
夜の始まりは、空気が変わる。
その夜、ラインハルト公爵邸は妙に静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。
風が止まり、木々のざわめきも消え、屋敷の壁が呼吸を忘れたように沈黙している。
(嫌な気配)
レティシアは、廊下を歩きながら胸の奥にざらつく感覚を覚えていた。
理由はわからない。
ただ、空気がいつもと違うだけと告げている。
視察官アレクシアの言葉が頭をよぎる。
あなたの出生に関わる者かもしれませんとは。
(私の出生のことみたい)
その言葉は、まだ胸の奥で形を持たないまま、不気味な影のように揺れていた。
◆
夜勤のメイド、エリンは廊下のランプを点検していた。
「なんか、変な感じがする」
彼女はランプの火を見つめながら呟いた。
火が揺れない。
風がないのに、空気が重い。
「エリン、どうしたの?」
ドロシーが近づいてくる。
「なんか空気が変じゃない?」
「変って?」
「わからない。でも、嫌な感じがするの」
ドロシーは眉をひそめた。
「レティの部屋、見に行こう」
二人は顔を見合わせ、走り出した。
◆
ヴィクトールは執務室で書類を見ていた。
だが、文字が頭に入らない。
「落ち着かない」
胸の奥がざわつく。
理由はわからないのもあり、レティシアの顔が何度も浮かぶ。
「レティ大丈夫だろうか」
立ち上がろうとした瞬間、窓の外で何かが動いた。
黒い影だった。
人の形にも見える。
しかし、動きは異様に静か。
「またか」
ヴィクトールは剣を手に取った。
◆
アレクシアは書類を閉じ、窓の外を見た。
「来たか」
空気の変化。
気配の揺れ。
訓練された者だけが察知できる侵入の気配だった。
「第三勢力動いたわね」
アレクシアは外套を羽織り、部屋を飛び出した。
◆
レティシアが自室に戻ろうとした時だった。
カツン。
廊下の奥で、靴音が響いた。
(誰かしら?)
夜勤のメイドの足音ではない。
もっと重く、もっと静かで、まるで獣が歩く音のようだった。
レティシアは振り返った。
そこには黒い影が立っていた。
覆面も、フードもない。
ただ、黒い外套をまとい、瞳だけが異様に光っている。
「レティシア・アレン」
低い声が廊下に落ちた。
「迎えに来た」
レティシアは後ずさった。
「誰ですか、あなたは?」
「名乗る必要はない。お前は戻るだけだ」
「戻る?」
「本当の家へ」
レティシアには理解できなかった。
(本当の家?)
「お前は伯爵家の娘ではない。それは知っているな?」
「はい」
「では、お前の本当の家系が何かは?」
「知りません」
「そうだろう。隠されていたからな」
影の男は一歩近づく。
「お前の血は王宮が恐れる血だ」
「え?」
「だからこそ、王宮はお前を隔離しようとしている。伯爵家はお前を利用しようとしている。そして我々は」
男の瞳が光った。
「お前を取り戻す」
レティシアは震えた。
(えっと、私は何者なの?)
レティシアは混乱するしかない。
影の男が手を伸ばした瞬間だった。
「レティ!!」
ヴィクトールが廊下の角から飛び出してきたのだった。
剣を抜き、レティシアの前に立つ。
「レティに触れるな」
影の男は微動だにしない。
「鉄血公爵か」
「お前は誰だ」
「名乗る必要はない」
「ある。レティを狙う理由を言え」
「理由は一つ。彼女は我々のものだからだ」
「ふざけるな!!」
ヴィクトールが剣を構えた時、別の方向から足音が響いた。
「閣下、下がってください!」
いきなり視察官アレクシアが駆け込んできた。
「その男は王宮の記録にもない存在です。第三勢力の影の一族の者かもしれません」
「影の一族?」
レティシアは息を呑んだ。
「彼らは、王宮に敵対する古い家系。表には出ないが、裏で動く影の血族です」
影の男は笑った。
「さすが王宮の視察官だ。話さなくとも、よく知っている」
「あなたたちがレティシアを狙う理由は何?」
「理由は一つ。彼女が影の血を継いでいるからだ」
レティシアの心臓が止まりそうになった。
(私が影の血ですって? 本当なの)
影の男は、真実の断片を話したものの、レティシアは混乱するばかり。
「レティシア・アレンの母は影の一族の最後の生き残りだった」
「母が?」
「伯爵家に預けられたのは、王宮から逃れるためだ。だが、王宮はお前を見つけた。そして我々も」
影の男は手を伸ばす。
「さあ、来い。お前はここにいるべきではない」
「嫌です」
レティシアは叫んだ。
「私はここで生きたい。閣下の屋敷で自分の足で」
影の男の瞳が揺れた。
「そうか」
レティシアが返答すると、戦いの幕開けとなった。
影の男が動いた。
風のように速く音もない。
ただ黒い線が走ったような動き。
「レティ、下がれ!!」
ヴィクトールが剣を振るう。
金属音が廊下に響く。
アレクシアも短剣を抜き、影の男の背後に回り込む。
「閣下、右へ!」
「わかっている!」
レティシアは壁際に下がりながら、胸が張り裂けそうなほどの恐怖と焦りを抱えていた。
(私のせいでみんなが!)
影の男は二人の攻撃を軽々とかわし、レティシアに視線を向けた。
「お前は必ず連れて行く」
「来させない!!」
ヴィクトールが叫んだ。
影の男は一瞬だけ動きを止め、レティシアを見つめた。
「レティシアの血は必ず呼ぶ。逃げられはしない」
次の瞬間、影は窓から飛び出し、夜の闇に溶けた。
風が吹き込み、カーテンが揺れる。
レティシアはその場に崩れ落ちた。
レティシアの胸の内は動揺だった。
(私影の一族?)
(私の血が誰かを呼ぶ?)
(私は何者なの?)
胸の奥で、これまで感じたことのない恐怖と疑問が渦巻いていた。
その中心には、
ヴィクトールの叫びが残っていた。
「レティを守る!!」
(閣下)
レティシアは、震える手を胸に当てた。
(私は逃げない)




