21話
第21話 第三の影
夜明け前、屋敷の外は、夜の名残がまだ空に貼りついている時間帯。
屋敷の外壁に沿って、黒い影が滑るように動いていた。
足音はない。呼吸の気配すらない。ただ、闇が形を持って歩いているような存在。
「ここが、ラインハルト公爵邸か」
低い声が、風に溶けた。影は屋敷の窓をひとつひとつ見上げ、その中のひとつレティシアの部屋の窓で動きを止めた。
「やはり、ここにいたか。レティシア・アレン」
声は、懐かしさと憎悪が混ざったような響きを持っていた。
朝。レティシアは、いつもより早く目を覚ました。胸の奥に、何かが引っかかっている。
夢を見た気がする。誰かが自分を呼んでいたような、そんな曖昧な感覚。
(気のせいよね)
そう思いたかった。だが、窓の外を見ると、朝露のついた窓枠に、指でなぞったような跡が残っていた。
(誰かが触った?)
胸が冷たくなる。
騒がしい朝はいつものことである。食堂に入った瞬間、レティシアはメイドたちに囲まれた。
「レティ、昨日の夜、誰かが屋敷の外を歩いてたって噂よ」
「影が動いてたって、夜勤のメイドが言ってた」
「また侵入者かな。もうやだ」
「閣下がレティの部屋の前で寝てたって本当?」
「それは本当です!!」
「ちょっと待ってください!!」
レティシアは慌てて手を振った。
「閣下は寝てません! ただ見張ってただけで!」
「それ寝てるのと同じよ」
「いや、むしろ寝てるより重症では」
「恋ね」
「恋だわ」
「恋以外に何があるのよ」
「聞こえてます!!」
レティシアは頭を抱えた。
ヴィクトールは、朝から落ち着かなかった。執務室の窓を何度も見に行き、廊下を歩くたびにレティシアの姿を探した。
メイドに、
「レティはどこだ」
と三回聞き、ウォーレスに
「落ち着け」
と五回言われた。
また狙われたらどうするのかが問題だった。
昨日の影の侵入。レティシアが怯えた顔で自分を見上げた瞬間。その記憶が胸に焼きついて離れない。
守らなければ。何があってもと決意する。
同時に、胸の奥に別の恐怖があった。
レティが、私のせいで危険に晒されているのではないかとも。その考えが、彼をさらに追い詰めていた。
◆
視察官アレクシアは、王宮からの追加通達を読み返していた。
レティシアを確保せよ。
第三勢力が動いている可能性ありという内容。
「第三勢力」
伯爵家でも、王宮でもない。だとすれば彼らが動く理由はレティシアか。アレクシアは目を閉じた。
あの子は、ただの雑用係ではない。
何かもっと大きなものに関わっている気がする。それが何なのかはまだ掴めない。
私の任務は、彼女を守ることなのか、それとも。アレクシアの胸に、初めて迷いが生まれていた。
◆
裏庭で洗濯物を干していると、アレクシアが現れた。
「レティシア。話があります」
「はい」
アレクシアは、昨日までとは違う表情をしていた。冷たさの奥に、何か別の感情が混ざっている。
「あなたを狙った者が、伯爵家ではない可能性が高いと判明しました」
「じゃあ、誰が?」
「まだ断定はできません」
アレクシアはレティシアの目を見た。
「あなたの出生に関わる者かもしれません」
レティシアの心臓が止まりそうになった。
「私の出生?」
「ええ。あなたは伯爵家の養子ですが、本当の両親については、記録がほとんど残っていません」
レティシアは信じられない。
(知らなかった。考えたこともない)
「あなたの本当の家系が、王宮にとって危険である可能性があります」
「危険?」
「あなたは、ただの雑用係ではないのです」
アレクシアの声は静かだった。
「あなたは鍵なのです。王宮と、伯爵家と、第三勢力にとって」
レティシアは息を呑んだ。
(私が鍵?)
その時、裏庭の入口から声がした。
「レティ!!」
ヴィクトールが駆け寄ってきた。
「レティ、どこに行っていたんだ! 探したぞ!」
「閣下、私は洗濯を」
「洗濯ならメイドに任せればいい」
「雑用係です!!」
「雑用係でも危険だ」
アレクシアが咳払いをした。
「閣下。あなたの過保護は、逆に彼女を追い詰めます」
「追い詰めてなどいない」
「追い詰めています」
「追い詰めていない!!」
「追い詰めています」
「そうなのか」
レティシアは二人の間に入った。
「やめてください!!」
二人はハッとしたようにレティシアを見た。
「私のことで喧嘩しないでください」
その声は震えていた。ヴィクトールの表情が曇る。
「すまない、レティ」
アレクシアも目を伏せた。
「申し訳ありません」
◆
その夜。屋敷の外で、再び影が動いた。昨日の影とは違う。
もっと静かで、もっと深い闇に属する者。
「レティシア・アレン。やっと見つけた」
影は屋敷の壁を伝い、窓の隙間から中を覗き込む。視線の先にはレティシアの部屋。
「迎えに来たぞ。本当の家へ」
影の声は、闇よりも冷たかった。




