17話
第17話 揺らぐ心
静かな朝、重たい空気だった。
朝の光が差し込む廊下は、いつもより冷たかった。
春のはずなのに、空気は冬の名残を引きずっているよう。
レティシアは洗濯籠を抱えながら、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
(昨日の言葉が、まだ胸に残ってる)
視察官アレクシアの声が、耳の奥で何度も反芻される。
あなたは彼にとって危険な存在ですという言葉が。
その言葉は、刃物のように鋭かった。
レティシアの心に深く刺さったままだった。
廊下の向こうでは、メイドたちが小声で話している。
「レティ、大丈夫かな」
「昨日の視察官の言い方、ひどかったよね」
「閣下も心配してたし」
レティシアは微笑んでみせたが、胸の奥は重いままだった。
そんなレティシアにも関わらず、視察官は再び動く。
「雑用係レティシア。今日もあなたの勤務を拝見します」
背後から響いた声に、レティシアは肩を跳ねさせた。
視察官アレクシアが立っていた。
昨日と同じ、冷たい瞳。
しかし、どこか探るような光が宿っている。
「はい」
「昨日の続きです。あなたの存在が公爵閣下に与える影響を調査します」
(存在って何よそれ)
レティシアは心の中で叫んだが、表情には出さなかった。
アレクシアはレティシアの動きを一つ一つ観察し、時折メモを取ルノは忘れない。
そして時折、意味深な沈黙を落とした。
その沈黙が、レティシアには何より怖かった。
毎日か公爵にとって落ち着かない日々になる。
午前の仕事を終えた頃、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「レティ」
ヴィクトール公爵だった。
昨日よりも疲れた顔をしているのが気になった。
「閣下、おはようございます」
「おはようレティ。昨日のことだが」
言葉が続かない。
ヴィクトールは視線を逸らし、喉を鳴らした。
「私は君を困らせてしまったか?」
「そんなことない」
「アレクシアの言葉を、気にしているのではないか?」
レティシアは胸が痛んだのは事実である。
(気にしてないと言ったら嘘になる)
だが、言えなかった。
「私は大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
ヴィクトールは、どこか寂しげに微笑んだ。
「ならいい」
その笑みが、レティシアの胸をさらに締め付けた。自分が悪いのかと思う。自分が公爵を苦しめているのかと。
レティシアはやや元気がなく落ち込むなか、メイドたちの作戦会議が始まる。
それは昼休みだった。
食堂の隅で、メイドたちが円陣を組んでいた。
「レティ、元気ない」
「視察官のせいよね」
「閣下も落ち込んでるし」
「このままじゃ屋敷が暗くなる」
ドロシーが拳を握りしめた。
「よし、レティを元気づける作戦を立てましょう!」
「賛成!」
「賛成!」
「賛成!」
レティシアは苦笑した。
(みんな、優しい)
「みなさん本当に、ありがとうございます」
「レティは私たちの仲間だもの!」
エリンが胸を張る。
「レティが元気じゃないと、屋敷が回らないし」
マルタが真顔で言う。
「閣下が暴走するし」
カトリーヌが微笑む。
「最後のは余計です!!」
レティシアは叫んだ。
雑談とは別に、視察官はハンナに迫ることになる。
午後。
アレクシアはハンナを呼び出していた。
「あなたがレティシアの教育係だと聞きました」
「はい」
「彼女は公爵閣下にとって危険な存在です」
ハンナは微動だにしなかった。
「危険、ですか」
「ええ。彼女がいることで、閣下の感情が乱れている」
「それは、悪いことなのでしょうか」
アレクシアが目を細める。
「どういう意味です?」
「閣下は、長い間、感情を封じて生きてきました。それが、どれほど苦しいことかあなたにはわからないでしょう」
アレクシアの表情が揺れた。
「レティシアは、閣下の心を揺らす存在です。それは危険でもあり救いでもあります」
「救い?」
「ええ。閣下が人間らしさを取り戻すためには、誰かが心を揺らさなければならないのです」
アレクシアは沈黙し、沈黙は、昨日とは違う意味を持っていた。
アレクシア視察官はレティシアに告げることになる。
夕方。
アレクシアはレティシアを呼び出した。
「レティシア。あなたに伝えなければならないことがあります」
「はい」
「あなたは、公爵閣下にとって危険であり、同時に必要な存在です」
レティシアは話を聞く。
「あなたがいることで、閣下の感情は揺れ動く。それは、彼の過去を呼び覚ます危険性もある」
(やっぱり、私のせいで公爵は悪くなるのかな)
「しかし」
アレクシアの声が少しだけ柔らかくなった。
「あなたがいなければ、閣下は人間らしさを失ったままです」
レティシアは目を見開いた。
「あなたは、彼にとって光でもあるのです」
胸の奥が熱くなった。
(光? 私が?)
視察官とレティシアが話をしていると、公爵がレティシアを探していた。
廊下の向こうから声が響いた。
「レティ」
ヴィクトールが走ってきた。
「レティ、どこに行っていたんだ」
「閣下、落ち着いてください!」
「落ち着けるか! 君がいないと私は」
アレクシアがため息をついた。
「やはり、調査は続ける必要がありますね」
「やめてください!!」
レティシアは叫んだ。
「閣下は私のせいで苦しんでいるんじゃありません」
「レティ?」
「私は閣下の力になりたいんです」
ヴィクトールの目が揺れた。
「レティ」
アレクシアは静かに言った。
「あなたの言葉、確かに聞きました。調査は続けますがあなたの意思も尊重します」
レティシアは深く息を吸った。
(私は逃げない。婚約破棄し、この屋敷に来てから決めた)




