14話
第14話 王宮視察官
元婚約者ギルバートが去ってから一夜明けた。
ラインハルト公爵邸は、昨日の修羅場が嘘のように静かだった。
その静けさは決して穏やかなものではない。
屋敷全体に、薄い霧のような緊張が漂っていた。
メイドたちはいつもより早く起きた。
廊下を行き交う足音は妙に軽く、しかし落ち着きがない。
誰もが次に何が起こるのかを恐れながらも、期待しているようだった。
(嫌な予感しかしない)
レティシアは、洗濯物を抱えながらため息をついた。
昨日の対峙で、彼女の心には確かに区切りがついたのに、屋敷の空気はむしろ騒がしくなっている。
騒ぎの原因はメイド達だ。
「レティ聞いたわよ。王宮から視察官が来るって」
ドロシーが廊下の向こうから全力疾走で飛び込んできた。かなり慌てている様子。
「またですかドロシーさん」
「またよ。今度は正式な視察官なんだって!」
エリンが青ざめた顔で続ける。
「王宮雑務局の特別査察官らしいです」
「特別?」
レティシアは眉をひそめた。いい予感はしないからだった。
(特別というのが、嫌な響きね)
屋敷の空気はもっとざわつく。廊下の角からマルタが現れた。
腕を組み、険しい顔をしている。
「視察官が来るって話、もう屋敷中に広まってるわよ。みんな、昨日の伯爵家の使者より怖がってる」
「なんでですか?」
「王宮の視察官ってのはね何でも見抜くって噂なのよ」
エリンが震える声で言う。周囲のメイドたちも不安になった。
「雑用係の働きぶりだけじゃなくて屋敷の空気とか、人間関係とかも見抜くらしい」
「人間関係も」
レティシアは思わず声を上げた。
(それって絶対に誤解されるやつじゃない)
ドロシーがレティシアの肩を掴む。
「レティ覚悟して。視察官って、絶対レティのこと根掘り葉掘り聞いてくる。気持ちで負けたらだめだわ」
「なんで私なんですか」
「だって、王都で噂になってるもの」
「鉄血公爵が雑用係に恋したって」
「違います。勝手に噂するなって!!」
レティシアは頭を抱えた。元婚約者が帰ったら、次は王宮となることに。
次から次と難題が押し寄せる。
公爵も朝から不安定な感じだった。レティを探すと不安を言葉にする。
「レティ」
低い声が廊下に響いた。
振り返ると、ヴィクトールが立っていた。
銀髪は乱れ、目は焦りで揺れている。
「閣下、おはようございます」
「おはようレティ。視察官が来るらしいな」
「はい聞きました。大変な事態です」
「レティは取られないよな?」
「取られません。心配しなくていいです」
「本当か?」
「本当です。私は王宮に行く気持ちはさらさらありませんので」
ヴィクトールは胸を押さえた。不安性な性格が日に日に出ている。
「よかった」
(閣下昨日からずっとこんな感じね。大丈夫かしら)
レティシアは苦笑した。
そこへハンナが静かに現れる。
「閣下」
静かな声が響いた。
ハンナが歩いてきた。
背筋は伸び、表情は落ち着き、動きには一切の無駄がない。
「なんだ、ハンナか。どうも不安が消えなくなる。どうしたらいいか」
「落ち着きなさい」
ヴィクトールがビクッと固まった。
「はい」
(閣下完全にハンナさんに弱いわね)
レティシアは思わず笑いそうになった。
「閣下。視察官が来るのは避けられません。ですが、あなたが動揺していると屋敷全体が不安になります」
「わたしの影響でみんなが不安になるか。わかった、もっと公爵らしくする」
ヴィクトールは深呼吸した。自分で気持ちを制御しようと思う。
「私は落ち着く落ち着く」
「閣下、呪文ではありません」
「すまない。気分を落ち着かせるつもりだったのだが」
ハンナはため息をついた。
「あなたは昔から、感情が顔に出すぎるのよ」
「そんなことは」
「あります」
「はい」
完全敗北である。これは今に始まったことではなかった。
ウォーレスがタイミングよく登場。
「いやあ、ハンナは本当に頼りになるね」
ウォーレスが柱にもたれながら笑っていた。
「閣下があそこまで素直になるの、ハンナくらいだよ」
「ウォーレス様。あなたも仕事に戻りなさい」
「えっ、僕も?」
「当然です」
「はい」
ウォーレスですら逆らえないらしい。
(ハンナさん本当にすごいわ)
視察官の噂が本格的に広がる。
それは昼の時だった。
食堂では、メイドたちが円陣を組んでいた。
「視察官って、どんな人なんだろう」
「怖い人だったらどうしよう」
「レティが連れて行かれたらどうするのよ」
「閣下が暴走するわね」
「戦争が起きるかも」
「やめてください。変な妄想は」
レティシアは頭を抱えた。
(なんで私が戦争の原因みたいになってるの)
その時、ハンナが静かに言った。
「心配しなくていいわ」
メイドたちが一斉に振り返る。ハンナなら具体的な解決策があると思ったから。
「視察官が誰であれ、レティシアはここで働くと決めた。それを尊重するのが、私たちの役目よ」
「ハンナさん!」
「かっこいい!」
「惚れる!」
メイドたちが感動している。
(先輩メイドとして、ハンナさん本当に頼りになるわ)
夕方、視察官到着の報せがあった。
レティシアが洗濯物を干していると、玄関ホールから声が響いた。
「ラインハルト公爵閣下に申し上げます。王宮雑務局・特別視察官、到着いたしました」
レティシアは緊張した。
(来たのかついに。元婚約者の時みたいにはいかないかも)
風が冷たく吹き抜け、洗濯物が揺れる。
その揺れが、まるで嵐の前触れのように感じられた。
メイド達の前に視察官が登場する。
玄関ホールに向かうと、そこにはひとりの人物が立っていた。
黒髪をきっちりと結い、
鋭い瞳を持ち、
無駄のない動きで立つその姿は。
「王宮雑務局・特別視察官、
アレクシア・フォン・ハーゲンと申します」
女性だった。
その声は冷たく、しかしよく通る。
(この人、絶対に厄介だわ)
レティシアは直感した。
アレクシアはレティシアを見ると、わずかに目を細めた。
「あなたが鉄血公爵の寝起きを改善した英雄ですね」
「違います」
レティシアは叫んだ。
それなのにアレクシアは微笑んだ。
その笑みは、どこか底知れない。
(なぜ微笑んだのか)
「では本日より、あなたの働きを直接拝見させていただきます」
(終わった)
レティシアは心の中で崩れ落ちた。
レティシアは、そっと息を吸った。
彼女はまだ知らない。
この視察官アレクシアが、公爵の過去と深く関わる人物であることを。
そしてレティシア自身の運命を大きく揺るがす存在となることを。




