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婚約破棄された雑用係の私、公爵様の甘々な求愛に無自覚なまま愛されすぎている件  作者: おーちゃん


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11話

第11話 静寂の前触れ、そして嵐の足音


 伯爵家の使者が去った翌日。

 ラインハルト公爵邸は、まるで大嵐の後のように静まり返っていた。

 昨日の騒動が嘘のように、廊下には落ち着いた空気が漂っている。静けさは、どこか不自然で、張りつめた薄い膜のように屋敷全体を覆っていた。

 メイドたちはいつも通りの動きを取り戻しているように見えるが、その足取りはどこかぎこちない。

 視線は落ち着きなく揺れ誰もが何かを気にしているようだった。

 レティシアは、朝の雑務をこなしながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。


(静かすぎる)


 昨日の使者の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 ギルバート様は大変心配されておりますと言い残した。


(心配? あの人が?)


 レティシアは苦笑した。

 心配という言葉が、あの男の口から出るとは思えない。

 むしろ、彼の心配は、彼自身の体裁のためだろう。


(だけど来る。必ず)


 胸の奥に、冷たい予感が広がった。

 洗濯物を畳む手が、ほんの少しだけ震えた。

 窓の外では、春の風が木々を揺らし、葉の擦れる音が微かに聞こえる。

 その音が、なぜか不吉なささやきのように感じられた。

 その時、背後から足音が近づいてきた。

 レティシアは振り返る。

 そこには、ヴィクトールが立っていた。公爵は朝から様子がおかしい。

 いつもなら寝起きの低血圧で半分死んだような顔をしている時間帯だが、今日は違う。

 彼は妙に真剣な表情で、レティシアを見つめていた。

 銀髪は朝の光を受けて淡く輝き、瞳は、何かを決意したように揺れている。

 レティシアは、彼の表情に一瞬戸惑った。

 普段の彼とは違う。どこか、言葉にできない緊張感が漂っていた。


「レティ。昨日のことだが」


 声が低い。

 いつもの情けない朝の声ではなく、

 騎士団時代の黒鉄の獅子を思わせる響きだった。


「閣下?」


「君が、伯爵家に戻らないと言ってくれて、私は」


 言葉が続かない。

 ヴィクトールは視線を逸らし、喉を鳴らした。

 レティシアは、彼の横顔を見つめた。表情は、どこか不器用で、どこか嬉しそうで、どこか怯えているようにも見えた。


(この人、本当に私のことでこんな顔をするのね)


 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。


「閣下。私は、ここで働きたいだけです。それだけです」


「それだけ、か」


 ヴィクトールは小さく呟いた。声は、どこか寂しげだった。

 レティシアは、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

 彼は、ほんの一瞬だけ、 何かを言いかけて飲み込んだ人間の顔をしていた。


「やあ、朝から重い空気だね」


 軽い声が廊下に響いた。ウォーレスが登場した。

 ウォーレスが、まるで散歩の途中のような足取りで近づいてくる。

 彼の歩みは優雅で表情は、すでに状況を面白がっているのが丸わかりだった。


(この人はわかりやすいわね)


「二人とも、まるで別れ話でもしているみたいだよ」


「してません!」


「していない!」


 レティシアとヴィクトールの声が重なり、ウォーレスは満足げに笑った。


「でも、昨日の使者の件あれは序章だよ」


 ウォーレスの声が、急に低くなった。

 その変化に、レティシアは背筋が伸びるのを感じた。


「伯爵家は、君の失踪を本気で問題視しているらしい。ギルバート本人が動く可能性もあると思う」


 レティシアの心臓が、ひとつ跳ねた。


(本人がここに?)


「本人が?」


「ええ。あの男は、プライドだけは高いからね。自分が捨てた令嬢が、公爵邸で生き生き働いているなんて、耐えられないだろう。そういう男さ」


 ウォーレスの言葉は、妙に現実味があった。


(来る、本当に来るのね)


 レティシアは拳を握りしめた。拳は、ほんの少し汗ばんでいた。


 その日の昼。

 食堂では、メイドたちが円陣を組んで、不穏な噂をしていた。

 まるで戦略会議のような真剣さで、しかし内容は完全に恋愛ドラマである。


「ねえ、聞いた? 伯爵家の使者、昨日すごい顔して帰っていったらしいわよ」


「ギルバート様、絶対怒ってるわよね」


「でも、レティは戻らないって言ったんでしょ。かっこよかったわ」


「閣下の前であんなに堂々と言えるなんて」


 レティシアは、スープを飲みながら静かに耳を傾けていた。

 スープの湯気が、彼女のため息と一緒にふわりと揺れる。


(みんな、優しいわね)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 同時に嵐の前の静けさのような不安が胸に広がっていく。


 夕方。

 レティシアは洗濯物を干しながら、空を見上げた。

 空は薄曇りで、風が少し冷たい。

 まるで、何かが近づいているような気配があった。

 夕方の嵐の前触れのように。


(来る)


 胸の奥で、確信が形を成し始めていた。

 背後から足音がした。


「レティシア嬢」


 ウォーレスだった。

 彼の表情は、いつもの軽さが消え、真剣そのものだった。

(いつもと違うわね)


「伯爵家の動きが、少し早い。どうやら、ギルバート本人が直接来るつもりらしい」


 レティシアの手が止まった。

 洗濯物が風に揺れ、ぱさりと音を立てる。


(ついに来るかここに)


「直接」


「ええ。君に会いに、ここへ」


 レティシアは、ゆっくりと息を吸った。

 胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に広がる。


(逃げない。もう、あの頃の私じゃない)


 その時だった。


「レティ、夕食はどうするか」


 ヴィクトールが勢いよく現れた。声は、どこか浮き足立っている。


「閣下、静かにしてください。声が大きい。静かに」


「静かにとは?」


「今、重要な話をしていたんです。お静かに」


「誰と」


「ウォーレス様と」


 ヴィクトールの表情が、またまた氷点下まで落ちた。


「ウォーレス。レティから離れろ」


「話をしている」


「話じゃない」


「だって、君が嫉妬するの面白いし」


「ウォーレス!!」


 今日三度目の怒号が響き渡り、屋敷中のメイドに聞こえた。

 レティシアは決意する。


(本当に、変な屋敷)


 ギルバートが来ることに、逃げないで受けて立つ。


(ここでなら、私過去に負けずに進める)


 レティシアは、そっと微笑んだ。

 笑みは、昨日より少しだけ強く、温かかった。

 そして彼女はまだ知らない。

 翌日、

 ギルバート本人が公爵邸の門を叩くことを。

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