10話
第10話 使者来訪、そして屋敷は修羅場になる
その日の朝。
レティシアが廊下を歩いていると、屋敷全体が妙にざわついていた。
普段は静かで規律正しい朝の空気が、今日はどこか落ち着きなく揺れている。
メイドたちはそわそわと行き交い、誰もが何かを隠しきれないような顔をしていた。
ひそひそ声があちこちで飛び交い、レティシアが通るたびに視線が集まる。
(嫌な予感しかしない)
レティシアが眉をひそめた瞬間、廊下の向こうからドロシーが全力疾走で飛び込んできた。
その勢いは、まるで火事場から人を引きずり出す救助隊のようだ。
◆
「レティ、大変よ今日はとんでもない客が来るらしいわ」
ドロシーは肩で息をしながら、レティシアの腕を掴んだ。
その手は震えており、ただ事ではないことが伝わってくる。
「また王宮査察隊ですか?」
レティシアは冷静に返したが、内心では胃が痛くなり始めていた。
(ヤバい、胃が痛い)
王宮査察隊の騒動は、まだ記憶に新しい。
「違うの、もっとヤバいの。伯爵家の使者よ」
伯爵家の使者、来訪の報せだった。
エリンは青ざめた顔で、震える指をレティシアに向けた。
「伯爵家?」
その言葉を聞いた瞬間、レティシアの背筋に冷たいものが走った。
胸の奥がぎゅっと縮む。
(嘘でしょ)
「そう、あんたの元婚約者の家よ」
レティシアは手に持っていた雑巾を落とした。
頭を叩かれたような感覚になるショックを受ける。
(ガーーーーーン!)
乾いた布が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
(来たのね。ついに)
心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
◆
そこへ、勢いよく扉が開いた。
まるで戦場に突撃する兵士のような勢いで、ヴィクトールが飛び込んでくる。公爵は朝から暴走していた。
「レティ、聞いたか。伯爵家の使者が来るらしい」
銀髪が乱れ、瞳は焦りで揺れている。
普段の冷徹な公爵の面影はどこにもない。
「はい、聞きました」
「安心しろ。私が追い返すからな。不安はない」
胸を張って宣言する姿は勇ましいが、方向性が間違っている。
「閣下、まだ来てもいません」
「来る前に追い返す」
レティシアは額を押さえた。
この主人は、彼女のために本気で暴走しているのはわかるが、毎回方向性が致命的におかしい。
(大丈夫かしら)
「閣下、それは物理的に不可能です」
ハンスはこめかみを押さえ、すでに疲れ切った顔をしていた。
「では来た瞬間に追い返す。問題なかろう」
「外交問題になります!」
ハンスの声は、もはや悲鳴に近かった。
◆
そこへコーヒーを飲みながらウォーレスが現れた。
彼だけがこの混乱の中で、まるで庭園散歩のような落ち着きを保っている。ウォーレスが来ると火に油を注ぐことになる。
(来た。火に油を注ぐ男)
「やあ、朝から賑やかだね。伯爵家の使者が来るって聞いた」
「どこから聞いたのよ。来させない」
「無理だよ。もう門の前にいるのだから」
「なにぃ、門の前に?」
公爵の顔が一瞬で蒼白になった。予想していなかった速度に。あまりの早さに固まる。
「えっ、もう、早くない?」
「うん。門番が鉄血公爵の怒号が怖いので勝手に追い返せないって言ってた」
「門番の判断は正しいです」
ハンスは頷きながら言った。
レティシアは、胃のあたりがきゅっと痛むのを感じた。
(うーん、逃げれませんね)
◆
その時、玄関ホールに重々しい声が響いた。
屋敷全体が一瞬で静まり返る。伯爵の使者の到着だった。
「ラインハルト公爵閣下に申し上げます。ラングレイ伯爵家よりの使者、参上いたしました」
レティシアは息を呑んだ。
胸の奥が、苦しい。
(ギルバートの家の人)
足が少し震えた。
◆
使者がレティシアを見つけた瞬間、ヴィクトールが前に立ちはだかった。 公爵は即座に壁になったのである。
その動きは、まるで敵から宝物を守る騎士のようだった。
「レティには用はないな?」
「いえ、あります」
「ないだろう」
「申し訳ないが、あります」
「ないと言っている!」
「閣下、落ち着いてください!!」
ハンスの声は、もはや悲鳴に近かった。
◆
「アレン男爵家の令嬢レティシア様の失踪について、伯爵家は大変心を痛めておられます。つきましては、レティシア様の安否確認と」
使者の声は丁寧だが、裏にある監視の気配をレティシアは敏感に感じ取った。
「安否確認?」
「はい。ギルバート様はレティシアは自分のせいで傷ついたのではないかと大変心配されております」
レティシアは無表情になった。
心の奥で、冷たいものが静かに沈んでいく。
(よく言うわね)
胸の奥に、過去の痛みが微かにうずいた。
◆
「レティは元気だ。むしろ元気すぎて私が困っている」
胸を張って言う公爵の姿は、どこか誇らしげですらあった。
「閣下、余計なことを言わないでください」
「では、レティシア様が無事である証として、こちらにご署名を」
「レティは署名しない」
「します」
「なぜだ」
「私の問題です!」
公爵、爆発している。
ウォーレスが横から口を挟む。
「これって夫婦喧嘩かな」
「違う!!」
レティシアとヴィクトールの声が見事に重なった。まるで夫婦のように。
そこへ、妖艶な侍女カトリーヌが優雅に歩いてきた。
歩みは、まるで舞台に登場する女優のように滑らかだった。
「まあまあ、閣下。嫉妬なさらないで」
「嫉妬していない」
「では、レティシアさんが伯爵家に戻っても構わないのですね」
「それは構う」
「やっぱり嫉妬してるじゃないですか」
「カトリーヌさん、あおらないでください」
レティシアは必死に制止したが、カトリーヌは楽しそうに微笑むだけだった。
混乱の渦の中、ハンナが静かに歩み出た。
落ち着いたたたずまいは、嵐の中の灯台のようだった。
「レティシア。あなたはどうしたいの?」
レティシアは深呼吸し、胸の奥にある答えを言葉にした。
「私は伯爵家には戻りません。ここで働きます。雑用係として。本心です」
使者は驚いたように目を見開いた。まさかの言葉だったから。
「そ、そんな!」
「聞いたな。レティはここにいる」
公爵は勝ち誇ったように胸を張った。つまりは勝利宣言である。
「しかし、ギルバート様は」
「知らん」
「し、しかし」
「知らんと言っている」
使者は涙目になりながら後ずさった。
「まあまあ。レティシア嬢の意思は固い。伯爵家には元気に働いていると伝えればいいんじゃないか」
なぜかウォーレンが説得しだす。
「は、はい」
使者は肩を落とし、敗北した兵士のように帰っていった。
レティシアの胸の内ははっきり言ってスッキリした。
(ギルバートがどう思おうと、もう関係ない)
レティシアは静かに息を吐いた。
胸の奥にあった重い石が、少しだけ軽くなった気がした。
(私はここで生きる。自分の足で)
その横で、ヴィクトールがほっとしたように微笑んでいた。
「レティ。よく言った」
「閣下、あまり騒がないでください」
「騒いでいない」
「お言葉ですが閣下、騒いでます」
ハンスの冷静なツッコミが、廊下に響いた。




