其ノ漆 黒翼、凪ヲ視ル之事
墨耕の言葉は、静かに胸へ沈んでいた。
――忘れた記憶は、形を変えて浮かぶことがある。
その声が、頭の奥に残って離れない。
凪は店を出たあとも、どこかぼんやりしていた。
昼の光は明るい。
通りには人の声が溢れている。
鈴音は相変わらず元気に走り回り、渓太はその後を追っていた。
それなのに。
凪だけが、少し遠い場所にいるような感覚だった。
「凪ー!」
鈴音が手を振る。
「こっちこっち!」
凪ははっとして駆け寄る。
「ご、ごめん」
「ぼーっとしてた!」
「……ちょっとだけ」
鈴音は不思議そうに首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、紙袋をずいっと差し出す。
「はい!」
中には串団子が入っていた。
まだ温かい。
「え」
「渓太が買ってくれた!」
「語弊がある」
渓太が眉を寄せる。
「お前が勝手に二人分持ってきただけだ」
「でも払ってくれた!」
「……放っておくとうるさいからだ」
鈴音はけらけら笑う。
凪は小さく笑って、「ありがとうございます」と頭を下げた。
渓太は少し視線を逸らす。
「別に」
短い返事だった。
三人はそのまま川沿いの道へ出る。
町の中央を流れる川は穏やかで、水面には陽の光が細かく揺れていた。
橋の欄干にもたれながら、鈴音が団子を頬張る。
「おいしい……」
「幸せそうだな」
「幸せだもん」
凪も団子を一口食べた。
ほんのり甘い。
その味に、少しだけ肩の力が抜ける。
風が吹く。
川面が揺れる。
凪はぼんやりと水を見つめた。
その瞬間。
ふ、と。
水面に何かが映った気がした。
紫色。
長い髪。
知らない誰か。
凪は息を呑み、反射的に身を乗り出す。
だが次の瞬間には、ただの揺れる水しか残っていなかった。
「……え」
鈴音が振り返る。
「どうしたの?」
凪は答えられない。
今のは何だったのか。
見間違い?
それとも。
胸の奥がざわつく。
頭の奥で、何かが引っかく。
思い出せそうで、思い出せない。
その感覚だけが残る。
渓太が凪の横へ来た。
「顔色が悪いぞ」
「……ううん、大丈夫」
そう答えた声は、自分でも少し弱かった。
渓太はしばらく凪を見ていたが、深くは追及しなかった。
代わりに、静かに川へ視線を向ける。
「無理するな」
低い声だった。
「この町は、人間には刺激が強い」
凪は小さく頷く。
川の流れる音が続く。
遠くで鈴音が「あっ鳥!」と騒いでいる。
その明るい声を聞きながら、凪はそっと胸元を押さえた。
さっき見えたもの。
あれが何だったのか、分からない。
けれど。
記憶は、本当にどこかに残っているのかもしれない。
そんな気が、少しだけした。
鈴音に手を引かれるまま、凪は通りを歩いていた。
町は昼の熱気に包まれている。
提灯が風に揺れ、軒先からは香ばしい匂いが流れてくる。
笑い声も、呼び込みの声も絶えない。
さっきまで墨耕の店にいたせいか、その賑わいが少しまぶしく感じた。
「ここ!」
鈴音が勢いよく立ち止まる。
暖簾のかかった小さな甘味屋だった。
「このお団子、すっごくおいしいんだから!」
「お前は毎回それを言うな」
渓太が呆れたように返す。
店先の席へ腰を下ろすと、鈴音は慣れた様子で注文を始めた。
「みたらし三本、あんこ二本、お茶も!」
「頼みすぎだ」
「食べるもん!」
凪はそのやりとりを見て、小さく笑った。
気づけば、肩の力が少し抜けていた。
店主らしい狸の妖怪が団子を運んでくる。
湯気と一緒に、甘い香りがふわりと広がった。
「ほら、凪も!」
鈴音が一本差し出してくる。
凪は受け取り、おそるおそる口に運んだ。
柔らかい。
もちもちとした食感と、甘じょっぱいたれが口に広がる。
思わず目を瞬く。
「……おいしい」
「でしょ!?」
鈴音のしっぽがぶん、と勢いよく揺れた。
渓太は呆れたように息をつきながらも、どこか安心した顔をしていた。
凪が笑っている。
それだけで、場の空気が少し軽くなる。
その時だった。
ふいに、通りの向こうがざわついた。
誰かが空を見上げる。
風が吹いた。
今までの穏やかな風とは違う。
鋭く、真っ直ぐな風。
ひゅ、と高い音が通りを抜ける。
渓太が顔を上げた。
「……来たか」
次の瞬間。
影が空を横切った。
大きな黒い影。
屋根の上を滑るように通り過ぎ、そのまま通りの先へ降り立つ。
ざわめきが広がった。
鈴音の耳がぴんと立つ。
「あ」
その声には、わずかに気まずそうな色が混じっていた。
凪は視線を向ける。
通りの先。
人混みの向こうに、一人の男が立っていた。
長い外套。
背に折りたたまれた黒い翼。
鋭い目が、まっすぐこちらを見ている。
凪の背筋を、冷たいものが走った。
――この視線。
さっき、路地で感じたものに似ている。
見透かされるような、逃げ場のない感覚。
男は静かに歩き出した。
周囲の妖たちが、自然と道を空けていく。
そのたびに、風が流れる。
渓太が小さく舌打ちした。
「早かったな……」
鈴音が凪へ顔を寄せ、小声で言う。
「怒ってる時の風来、ちょっと怖いんだよね」
「風来……?」
凪が呟く。
男は三人の前で足を止めた。
近くで見ると、威圧感がさらに強い。
騒がしい通りの真ん中にいるのに、その周囲だけ空気が静まり返っているようだった。
風来はまず鈴音を見る。
「お前」
鈴音の耳がへにゃりと下がる。
「はい」
「なぜ報告しない」
「……忘れてた」
「忘れるな」
即答だった。
鈴音がしゅんと肩を落とす。
渓太が横から口を開いた。
「責めるなら俺も同じだ」
風来はそちらを一瞥したが、何も言わなかった。
代わりに。
その視線が、凪へ向く。
凪は思わず息を止める。
黒い目だった。
深く静かで、何を考えているのか分からない。
けれど、見られているだけで胸の奥がざわつく。
風来はしばらく黙ったまま凪を見つめていた。
やがて、低い声が落ちる。
「……お前が、凪か」
その瞬間。
胸の奥で、何かが小さく軋んだ気がした。




