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8/8

其ノ捌 逢魔辻

捌で8と読むそうです。昔の人すごくね?

風来の言葉が、静かに落ちた。


「……お前が、凪か」


その瞬間だった。


胸の奥で、何かが軋んだ。


ぎしり、と。


音にならない音。


凪は思わず息を止める。


心臓が一拍だけ遅れたような感覚。


痛みではない。


けれど、どこか苦しい。


忘れていた夢を急に思い出しかけた時のような、奇妙な違和感だった。


無意識に胸元へ手を添える。


その仕草を、風来は見逃さなかった。


「どうした」


低い声が降ってくる。


凪は慌てて首を振った。


「いえ……」


言葉が続かない。


自分でも何が起きたのか分からなかった。


ただ、風来の顔を見た瞬間、何かが引っかかった。


知っているはずがない。


初めて会った相手だ。


それなのに。


胸の奥だけが違うと言っている。


風来はしばらく黙っていた。


黒い瞳がまっすぐ凪を見つめている。


試すような視線ではない。


探るような視線でもない。


ただ静かに見ている。


そのことが、かえって落ち着かなかった。


「顔色が悪いな」


風来が言った。


「そんなこと……」


「ある」


短く返される。


凪は思わず口を閉じた。


横で鈴音が慌てて口を挟む。


「あのね! 凪さっき墨耕のところ行ったの!」


渓太が頭を抱えた。


「ああ、もう……」


鈴音は気づかない。


「それでね、なんか色々見てもらって――」


「鈴音」


「削られてるって言われた!」


言ってしまった。


渓太が深々とため息をつく。


通りの空気が少しだけ止まる。


風来は何も言わない。


ただ、目だけがわずかに細くなった。


その変化を、凪は見逃さなかった。


ほんの少し。


本当にほんの少しだけ。


風来の表情が動いた。


まるで聞きたくない言葉を聞いたように。


「……どういう意味なんですか」


気づけば口から出ていた。


風来の視線が凪へ戻る。


風が吹く。


長い髪が揺れる。


しばらく沈黙が続いた。


やがて風来は口を開く。


「墨耕は文字を見る」


「文字……」


「名前や筆跡から、多くのものを読む」


凪は黙って聞いていた。


「だが」


風来の声が少し低くなる。


「見えるものが全て正しいとは限らない」


その言葉は妙だった。


否定しているようで。


どこか肯定しているようでもある。


まるで、自分自身に言い聞かせているような響き。


凪は少しだけ迷った。


けれど聞かなければならない気がした。


「風来さんは」


風来の目が向く。


「私のこと、何か知ってるんですか」


その瞬間だった。


ほんの一瞬。


本当に一瞬だけ。


風来の瞳が揺れた。


驚いたような。


あるいは思いもよらない言葉を聞いたような。


けれど、それはすぐに消える。


風来は静かに答えた。


「知らん」


短い返事。


それ以上は何も言わない。


嘘をついているようには見えなかった。


だが。


何も知らない人間の反応でもなかった。


凪の胸に小さな棘が残る。


その時。


どこか遠くで鐘が鳴った。


ごうん――


重く、長い音。


町中に響き渡る。


鈴音が空を見上げる。


「あ」


渓太も同じように顔を上げた。


「もうそんな時間か」


西の空が赤く染まり始めている。


屋根の向こうで、夕日が沈みかけていた。


昼と夜の境目。


人の世と妖の世が最も近づく時間。


風来は空を見たまま言う。


「帰るぞ」


その声で、凪も我に返る。


「煙羅が待っている」


鈴音が勢いよく立ち上がった。


「お腹空いた!」


「お前はさっき団子を食っただろ」


「団子は別!」


渓太が呆れる。


そのやりとりに少しだけ笑いそうになる。


けれど。


歩き出そうとしたその時だった。


ふいに。


誰かが呼んだ気がした。


「凪」


確かに。

そう呼ばれた気がした。


足が止まる。


振り返る。


夕日に染まる通り。


行き交う妖たち。


揺れる提灯。


誰もこちらを見ていない。


声など聞こえるはずがない。


それでも。


胸の奥が強く脈打つ。


懐かしい。


どうしてなのか分からない。知らないはずなのに。


涙が出そうになるほど。


懐かしかった。


そして、その瞬間。


閉ざされていた記憶の奥底で。


何かが、小さく揺れた。


赤い夕焼け。


風に揺れる白い花。


誰かの後ろ姿。


――そこで景色は途切れる。


次の瞬間には、もう何も見えなかった。


凪は立ち尽くす。


今のは何だったのか。


夢か?幻か?それとも?


忘れてしまった記憶の欠片だったのか。


「凪?」


鈴音の声がする。


凪ははっとして顔を上げた。


三人がこちらを見ている。


「……ううん」


小さく首を振る。


「なんでもない」


そう答えながらも。


胸の奥では、確かに何かが動き始めていた。

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