其ノ陸 墨香る路地にて
通りを抜けるころには、凪の呼吸も少し落ち着いていた。
昼の町は賑やかだった。
軒先では湯気が立ち、誰かが笑い、遠くで鈴の音が鳴っている。
さっきまでの妙な感覚が、夢だったように思えるほどだ。
けれど、胸の奥にはまだ薄く残っていた。
見られていた。
あの感覚だけが消えない。
「次どこ行く?」
鈴音がくるりと振り返る。
耳がぴんと立ち、しっぽが忙しなく揺れていた。
「まだまだあるよ! 川の向こうも行けるし、お団子屋も――」
「全部回る気か」
渓太が呆れたように言う。
「一日じゃ終わらん」
「じゃあ明日も!」
「お前は体力で解決するな」
凪は思わず小さく笑った。
その瞬間。
――からん。
澄んだ音が響く。
風鈴にも似た、小さな音。
凪は足を止めた。
音のした方を見る。
通りの端に、一軒の古びた店があった。
他の店より少し暗い。
木の看板には墨文字が残っているが、擦れて半分ほど読めなくなっている。
軒先には無数の紙片。
古い筆。
吊るされた短冊が、風もないのにかすかに揺れていた。
鈴音が「あ」と声を上げる。
「墨耕のとこだ」
「墨耕?」
凪が聞き返すと、渓太が答えた。
「筆の付喪神」
短い説明だった。
店の奥は薄暗い。
けれど、その暗がりの中で何かが動いた。
さらさら、と。
紙を擦る音。
墨を含んだ筆が走る音だった。
やがて、人影が奥から現れる。
細身の男だった。
墨色の着物。
長い黒髪を後ろで緩く結び、白い指先には黒い墨が染みついている。
片手には一本の古筆。
男は店先まで来ると、凪を見て静かに足を止めた。
その目が、細くなる。
何かを測るような視線。
凪は無意識に背筋を伸ばしていた。
鈴音が元気よく手を振る。
「墨耕ー!」
男――墨耕は、ゆっくり瞬きをした。
それから低い声で言う。
「……その子か」
渓太が頷く。
「煙羅のところに来た人間だ」
墨耕の視線が、再び凪へ向く。
まっすぐだった。
逃げ場がないほどに。
凪は喉が少し乾くのを感じた。
数秒の沈黙。
やがて墨耕は、小さく呟く。
「なるほど」
それだけだった。
鈴音が首をかしげる。
「なにが?」
「いや」
墨耕は視線を外し、筆を指先で静かに回す。
「少し、気になっただけだ」
凪の胸が、またわずかにざわついた。
さっき路地で感じたものとは違う。
けれど、どこか近い。
見透かされるような感覚。
墨耕は店の奥へ目を向ける。
「入るか」
「え?」
「茶くらいは出せる」
鈴音の耳がぴんと立つ。
「入る!」
「お前は遠慮を覚えろ」
渓太が即座に言う。
だが墨耕は気にした様子もなく、踵を返した。
薄暗い店の奥へ歩いていく。
凪はその背を見つめる。
店の中からは、墨と紙の匂いが流れてきていた。
静かな匂いだった。
落ち着くのに、どこか緊張する。
まるで、この場所では隠しているものまで紙に写されてしまうような。
そんな気がした。
凪たちは店の中へ足を踏み入れた。
外から見たよりも、ずっと静かな空間だった。
棚には巻物や和綴じの本が隙間なく並び、天井からは細い短冊がいくつも吊るされている。
薄暗い店内に差し込む光が、白い紙の端をぼんやり照らしていた。
さらり、と。
どこかで紙が揺れる音がする。
凪は思わず周囲を見回した。
「こっちだ」
墨耕の声に導かれ、店の奥へ進む。
小さな座敷があった。
低い机と座布団。
隅には墨壺と筆立て。
窓際には書きかけの紙が積まれている。
墨耕は慣れた手つきで湯を沸かし始めた。
鈴音はすでに座布団へ飛び込んでいる。
「ここ落ち着くよねー」
「お前はどこでも落ち着くだろ」
渓太が呆れたように腰を下ろす。
凪は少しためらってから、静かに座った。
店の中は、不思議なほど音が小さい。
外の賑わいが遠い。
まるでここだけ、時間の流れが違うようだった。
墨耕が茶を淹れる。
湯気と一緒に、柔らかな香りが広がった。
「ほら」
差し出された湯呑みを、凪は両手で受け取る。
「あ……ありがとうございます」
墨耕は何も言わず、自分も向かいへ座った。
その視線が、また凪へ向く。
静かな目だった。
けれど、やはり何かを見透かされている気がする。
凪は落ち着かなくなり、湯呑みへ視線を落とした。
すると墨耕がぽつりと言う。
「記憶がないそうだな」
凪の指先がわずかに止まる。
「……はい」
「どこまで覚えている」
「名前だけです」
「家族は」
凪は小さく首を振った。
「顔も、思い出せなくて」
墨耕は黙った。
紙の擦れる音だけが、静かに響く。
鈴音が空気を変えるように声を上げる。
「でも凪、ちゃんと笑うよ!」
渓太が苦笑する。
「お前の評価基準はそれしかないのか」
「大事だもん!」
墨耕は、そのやりとりを静かに見ていた。
やがて、視線を細くする。
「……そうか」
また、それだけだった。
凪は思い切って聞く。
「あの」
「なんだ」
「さっきから、“なるほど”とか、“気になる”とか……何なんですか」
墨耕の目が、わずかに動いた。
店の空気が少しだけ静まる。
鈴音も口を閉じた。
墨耕はすぐには答えなかった。
代わりに、近くの紙を一枚引き寄せる。
細筆を取り、墨を含ませる。
さらり、と。
静かな音を立てながら、紙へ文字を書く。
凪はその筆先を目で追った。
迷いのない線だった。
やがて墨耕は筆を止める。
書かれていたのは、ひとつの文字。
――「凪」。
墨耕はその字を見つめたまま言う。
「文字には癖が出る」
低い声が、静かに落ちる。
「名にも、気配が宿る」
凪は息を呑む。
墨耕は顔を上げた。
「お前の名は、不自然なほど静かだ」
店の空気が、しんと冷える。
「まるで、何かを無理やり鎮めた後のようにな」




