其ノ伍 仄見ゆる影
障子が、かすかに震えた。
誰も触れていない。
それでも紙が鳴り、部屋の空気がひと筋、流れる。
煙羅の指先が止まる。
「……来たねぇ」
次の瞬間、引き戸が音もなく開いた。
風が入る。
強くはない。ただ、まっすぐで、迷いのない風だった。
室内に溜まっていた煙が一息に散り、白い筋だけを残して消える。
その風の中に、影が立つ。
いつからそこにいたのか分からない。
最初からいたようにも、今現れたようにも見える。
長い外套が揺れる。
背に折りたたまれた黒い翼。
鋭い目が、座敷の奥まで静かに見通す。
天狗――風来。
その視線が、ひとりずつをなぞる。
煙羅。水伯。大紫。絹代。
そして、空いている座にわずかに止まった。
「……ほう」
低い声が落ちる。
「ずいぶんと、楽しそうな集まりだな」
誰もすぐには答えない。
風来は一歩、畳へ踏み込む。
足音は軽いのに、やけに響いた。
「呼ばれていないが、気配は感じた」
視線が煙羅へ向く。
「説明してもらおうか」
煙羅は崩した姿勢のまま、煙管をくるりと回す。
「あんたは相変わらず鼻が利くねぇ」
「ごまかすな」
短い言葉だった。
「何を決めた」
沈黙が落ちる。
煙羅は小さく息を吐いた。
「新入りの話さ」
「……人間か」
「そう」
水伯が静かに口を開く。
「記憶を失っている少女だ」
風来の眉がわずかに動く。
「それを、どうした」
煙羅は答える。
「しばらく、ここに置くことにした」
その一言で、空気が張り詰める。
風来はゆっくりと目を細めた。
「許可なく、か」
「許可が必要な話でもないだろう」
煙羅は淡々としている。
「この町に流れ着いた者の扱いは、あたしの領分だ」
風来は黙る。
短いが、重い沈黙。
やがて、低く問う。
「理由は」
煙羅は肩をすくめる。
「妙だからだよ」
大紫が続ける。
「自然な迷い込みではない」
水伯が言葉を重ねる。
「痕跡がない」
絹代がやわらかく言う。
「でも、悪い気はしないわ」
風来はすべてを聞き終え、目を閉じた。
ほんの数秒。
風も音も止まったように感じる。
そして、目を開く。
「見せろ」
短く、はっきりと。
煙羅が片眉を上げる。
「今はいないよ」
「どこだ」
「町の中。鈴音と渓太が案内してる」
わずかな間。
風来の表情に、ほんの少しだけ変化が走る。
「……あの二人に任せたのか」
「問題あるかい?」
「あるに決まっている」
即答だった。
その一言で、張りつめていた空気がわずかにほどける。
だが風来はすぐに真顔へ戻る。
「戻ったら、連れて来い」
煙羅は煙をくゆらせる。
「会う気かい」
「判断する」
それだけ言う。
煙羅は小さく笑った。
「最初からそう言えばいいのにねぇ」
風来は何も返さない。
ただ静かに座へと進み、腰を下ろした。
風はもう止んでいる。
それでも、部屋の空気は先ほどよりも重くなっていた。
凪の知らないところで、ひとつ視線が増えた。
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通りは、昼のざわめきに満ちていた。
呼び込みの声。笑い声。器の触れ合う音。
見慣れない姿の者たちが行き交い、それぞれの営みを続けている。
凪はその中を歩いていた。
少し前を鈴音が軽やかに進み、後ろから渓太が静かに目を配る。
そのあいだに挟まれるようにして、凪は足を運んでいた。
「こっちはね、夜になると灯りがきれいで――」
鈴音の声が弾む。
凪は頷きながら、ふと歩調をゆるめた。
胸の奥に、ひっかかるものがあった。
理由はわからない。
音でも匂いでもない。
ただ、どこかで何かがずれたような感覚。
足が止まる。
「……?」
背中を、なぞられたような気がした。
振り返る。
人がいる。
誰もがそれぞれの方向へ歩いている。
こちらを気にする様子はない。
それなのに。
ぞわり、と。
背筋を冷たいものが走り抜けた。
思わず肩を抱く。
呼吸が浅くなる。
「凪?」
鈴音の声が近くで止まる。
「どうしたの」
凪は言葉を探す。
けれど、うまく出てこない。
代わりに視線だけが、ひとつの場所へ引かれていく。
細い路地の奥。
日が届かない影。
そこに、何かがある気がした。
人影はない。
動くものもない。
けれど。
――見られている。
はっきりと、そう感じた。
凪の喉がひりつく。
目を逸らせない。
何もいないはずの暗がりが、こちらを見返しているように思えた。
時間が、少しだけ伸びる。
その瞬間。
ふっと。
すべてが途切れた。
気配が消える。
視線も、圧も、何もかもが嘘のように引いた。
ただの路地が、そこに残るだけだった。
凪はようやく息を吐いた。
「……ごめん」
小さく言う。
「なんでも、ない」
鈴音が覗き込む。
「ほんと?」
「うん」
少し間があって、鈴音は笑顔に戻る。
「ならいいけど!」
また軽い足取りで前へ進んでいく。
渓太だけが、その場に一瞬だけ残った。
凪が見ていた路地へ、視線を向ける。
何もない。
だが、ほんのわずかに眉を寄せる。
それ以上は何も言わず、踵を返した。
「行くぞ」
短く声をかける。
凪は頷き、歩き出す。
通りのざわめきが、再び耳に戻ってくる。
さっきと同じはずの景色。
けれど、どこか違う。
胸の奥に、薄く残るものがあった。
確かな形はない。
それでも消えない感覚。
――見られていた。
誰かに。
どこかから。
その事実だけが、静かに残っていた。




