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其ノ肆 境界来訪者審議録

煙羅が煙管に火を入れると、細い煙がゆるやかに立ちのぼった。


戸の向こうで遠ざかっていく足音が、完全に消えるのを待つ。

それから、ようやく口を開いた。


「さて」


声は低く、静かだった。


「ここからは、大人の話だ」


誰も返事をしない。

だが、空気が変わったのははっきりとわかった。


さきほどまでの柔らかさが消え、座敷には張りつめた静けさが満ちる。


水伯がわずかに身じろぎする。


「凪のことだな」


煙羅は煙を吐き、頷いた。


「ただの迷い人にしちゃ、妙だ」


その一言に、全員が同じ認識を共有する。


渓太がいない今、代わりに口を開いたのは水伯だった。


「川には痕跡がない」


短い言葉だったが、重みがある。


「流れて来た形跡も、境を渡った気配も見当たらない」


絹代が静かに目を伏せる。


「森も同じよ」


大紫が続ける。


「境界を越えたなら、何かしらの歪みが出る。だがあの娘には、それが薄い」


煙羅は煙管の灰を軽く落とした。


「つまり、“来た”んじゃない」


白い煙が揺れる。


「“現れた”」


その言葉に、わずかな沈黙が落ちる。


偶然では片付けられない。

この町に人が現れるとき、それは大抵、何かが絡んでいる。


絹代がゆっくりと口を開いた。


「記憶がないのも、その一部かしら」


「だろうねぇ」


煙羅はあっさりと答える。


「都合よく抜けてる。あれは自然な忘れ方じゃない」


水伯の視線がわずかに鋭くなる。


「意図的なものか」


「その可能性もある」


煙羅は否定しない。


「誰かに消されたのか、あるいは自分で捨てたのか」


大紫が静かに言う。


「どちらにせよ、理由がある」


その通りだった。


理由のない現れ方はしない。

この町は、そういう場所ではない。


再び沈黙。


やがて水伯が口を開く。


「どうする」


簡潔な問い。


煙羅は煙をくゆらせながら、しばらく考えるふりをした。

だが、その答えは最初から決まっているようにも見えた。


「しばらくは手元に置く」


「監視か」


「観察と言っておくれ」


煙羅はわずかに笑う。


「外に出して何か起きるより、目の届くところにいた方が楽だ」


絹代が小さく息をつく。


「優しいのか、現実的なのか分からないわね」


「どっちもだよ」


煙羅はあっさりと言った。


大紫が目を細める。


「もし」


その声は低く、静かだった。


「災いの種であった場合は」


空気がわずかに冷える。


煙羅は煙管を口から離し、灰皿へ軽く当てた。


小さな音が、やけに響く。


「その時は」


一拍。


「その時さ」


軽い言い方だった。


だが、その片目はまったく揺れていない。


「芽のうちに摘む。それだけだよ」


誰も反論しなかった。


それが、この町の均衡を守る者の判断だからだ。


しばらくして、絹代がふっと表情を緩める。


「……でも」


視線を戸の方へ向ける。


「今はただの娘ね」


外から、かすかに笑い声が聞こえた気がした。


鈴音の高い声。

それに混じる、少し遠慮がちな声。


凪のものだ。


煙羅は何も言わず、煙を吐く。


白い煙はゆっくりと天井へ昇り、やがて形をなくした。

煙がゆらりと揺れた。


重い話がひと区切りついた、そのわずかな隙だった。


水伯がふと、顔を上げる。


「ところで」


静かな声。


「風来は?」


一瞬、空気が止まった。


沈黙。


煙羅の手がぴたりと止まり、絹代のまつげがわずかに揺れる。

渓太はいないはずなのに、そこにいたら確実に固まっていたような間だった。


次の瞬間。


「あっ」


「……あら」


「……」


声が重なる。


煙羅がこめかみに指を当てる。


「……呼んでないねぇ」


絹代が小さく口元に手を添える。


「完全に抜けていたわ」


水伯は無言で目を閉じた。


大紫だけは、ほんのわずかに目を細める。


「天狗は気配で察する類だ。すでに知っている可能性はある」


「それはそれで厄介だねぇ」


煙羅は煙を吐く。


「呼ばれなくても来るならまだいい。来ないで後から文句を言うのが一番面倒だ」


絹代がくすりと笑う。


「言いそうね、“ずいぶん楽しそうな集まりだったな”って」


水伯が淡々と付け加える。


「高い場所から全部見ていた、という顔で来るな」


煙羅は軽く舌打ちをした。


「やれやれ。あいつも面倒な性質だ」


一拍置いて、ふと思い出したように言う。


「そういえば幽香は?」


絹代が肩をすくめる。


「“まとまったら教えてね〜”ですって。相変わらず気ままね」


「クラゲは流れに任せるだけだから楽でいい」


水伯が言う。


煙羅は小さく笑う。


「流されてるようで、ちゃんと要点は拾うけどねぇ」


「墨耕は」


大紫が短く問う。


煙羅が答える。


「記録役だよ。“あとで詳しく聞くから一語一句違えずに話せ”ってさ」


絹代が少しだけ呆れた顔をする。


「相変わらず几帳面ね」


「ありがたいよ。面倒ごとはああいうのに任せた方がいい」


再び、静けさが戻る。


けれど今度は、どこか少しだけ力の抜けた空気だった。


水伯が最後にひとことだけ言う。


「……風来には、あとで説明が必要だな」


煙羅は煙をくゆらせながら答える。


「機嫌が悪くなる前にねぇ」


そのとき。


遠く、屋根の上から――


かすかに、風が鳴った気がした。

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― 新着の感想 ―
妖の集まりはビジュアルで見てみたいですね。凪の存在が波風立てたのがわかりましたけど、迎え入れてもらえそうなのは良い方向です。彼女が何者かというのが、「“現れた”」というのが不穏です。
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