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其ノ参 迷ひ人、妖都の座敷に迎へらる

朝の片づけがひと段落したころだった。


店先を掃き終えた凪が箒を壁に立てかけると、居間の奥から煙羅の声がした。


「凪、終わったなら入りな」


部屋へ戻ると、煙羅は帳面を広げたまま、指先で机をとんとんと叩いていた。

鈴音はその横で、飽きた子どものように寝転がっている。


「退屈そうだねぇ」


煙羅が言うと、鈴音は顔だけ上げた。


「だって今日は誰も来ないんだもん」


「来ない日にしかできない仕事もある」


帳面を閉じ、煙羅は鈴音へ視線を向ける。


「鈴音。水伯を呼んできておくれ」


その名に、凪は小さく首をかしげた。


水伯。

当たり前だけど、聞き慣れない名前だ。

鈴音はぱっと起き上がる。


「水伯? あのカッパの?」


「他に誰がいるんだい」


「いるかもしれないじゃん、水のえらいひととか!」


「水の妖怪なんて色々いるからねぇ」


煙羅は気にも留めず、湯呑みに茶を注いだ。


「ま、とりあえず呼んできな」


「はーい!」


鈴音は元気よく返事をしたあと、ふと凪の方を見た。


そして、耳をぴんと立てる。


「凪も連れてっていい?」


凪は目を瞬かせた。


「え、私?」


「うん! 外まだちゃんと見てないでしょ? 水伯様、こわい顔してるけどいいやつだし!」


「こわい顔なんだ……」


煙羅は少し考えるように目を細めた。


「……まあ、いいだろう」


「やった!」


鈴音のしっぽが勢いよく振られる。


「ただし」


煙羅の声に、鈴音がぴたりと止まる。


「川へ飛び込むんじゃないよ」


「えー」


「凪を走らせすぎるんじゃない」


「えー」


「水伯をからかうんじゃない」


「なんでわたしだけ三つもあるの!?」


煙羅はしれっと言った。


「前科が多いからさ」


凪は思わず笑ってしまう。


鈴音は頬を膨らませたが、すぐに気を取り直して凪の手を取った。


「いこ!」


「ちょ、ちょっと待って、まだ心の準備が——」


「準備してたら昼になる!」


引っ張られるまま外へ出る。


朝の町は、昨夜とはまた違って見えた。


提灯は消え、軒先には朝露が光っている。

店を開ける妖怪たち。屋根の上で寝ている猫。

奇妙なのに、どこか普通の朝の景色だった。


「こっちこっち!」


鈴音が石畳を駆ける。

凪は慌ててあとを追う。


通りを抜け、橋を渡ると、水の匂いが強くなった。


やがて開けた場所に出る。

広い川。

朝日を受けてきらめく水面。


その岸辺に、一人の青年が立っていた。

濡れた緑がかった黒髪。

袖をまくった作業着。

背には甲羅を思わせる丸い装具。

片手には長い竹竿を持っている。

軽やかに石畳へ着地すると、青年は濡れた前髪をかき上げ、鈴音を見た。


「けいたー!!!」


「朝からでかい声を出すな」


「えへへ、見つけた!」


「隠れていたわけじゃない」


青年は小さくため息をつき、それから凪へ視線を向けた。


涼しげな目元が、少しだけやわらぐ。


「初めて見る顔だな」


鈴音が胸を張る。


「凪! 記憶ない子!」


「説明が雑すぎる……」


凪が小声でつぶやくと、青年の口元がわずかに動いた。


「渓太だ」


短く名乗る。


「この町の水路と川を見てる。困ったことがあれば、水辺で呼べばいい」


「よ、よろしくお願いします」


凪が頭を下げると、渓太は気まずそうに視線を逸らした。


「そんなにかしこまらなくていい」


鈴音がすぐ横から割り込む。


「水伯様いるー?」


「兄貴か?」


そう言って一歩踏み出した、その時だった。


背後の水面が大きく波立つ。


ざぶり、と重い音。


川の中央から、水がせり上がるように人影が現れる。


長い髪を濡らし、静かな眼差しをした男。

水そのものが形を取ったような、張りつめた気配。

足元の流れさえ、その者を避けているように見えた。


凪は息をのむ。


鈴音だけが、いつもの調子で手を振った。


「あ、水伯さまー!」


現れた男は、岸辺の三人を見渡し、低い声で言った。


水伯の低い声が、川面を静かに震わせた。


「……騒がしいぞ」


鈴音は胸を張る。


「わたし一人でも三人分くらい賑やかだから!」


「誇ることではない」


渓太が即座に返す。

そのやり取りに、水伯は小さく息をついただけだった。


凪は思わず背筋を伸ばす。


近くで見ると、水伯は渓太ともまた違う雰囲気をまとっていた。

渓太が“町の水辺で働く者”なら、この人はもっと古い、水そのものに近い存在に見える。


水伯の視線が凪へ向く。


まっすぐで、静かな目だった。


「その子か」


短い言葉に、鈴音が元気よくうなずく。


「そう! 記憶ない子!」


「だからその言い方……」


凪が小さく訂正しかけると、水伯は気にした様子もなく言った。


「煙羅の所に行くぞ」

水伯は淡々と返し、岸へ上がった。

濡れていた衣が、水を払うようにひとりでに乾いていく。


渓太が竹竿を肩に担ぎ直す。


「煙羅が呼んだなら、ここで立ち話をしている場合じゃない」


「だね!」


鈴音は凪の手を取る。


「帰ろ!」


「また走るの?」


「走る!」


結局、返事を待たずに駆け出した。


石畳の町を抜け、橋を渡り、相談処へ戻る。

凪は息を切らしながら、どうにかついていく。


戸の前で鈴音が勢いよく止まった。


「ただいまー!」


引き戸が開く。


いつもの香の匂い。

けれど今日は、それだけではなかった。


部屋の空気が少し違う。

静かで、整っていて、どこか張りつめている。


凪が中へ足を踏み入れ、思わず立ち止まった。


座敷には煙羅がいる。

その向かいに、見知らぬ二人が座っていた。


ひとりは女性。


白と紫を基調にした優美な衣。

羽を思わせる飾りのついた帽子を被り、長い指先で茶器を持っている。

姿勢のひとつひとつまで美しく、そこにいるだけで空気が華やいで見えた。


女は凪を見ると、やわらかく微笑む。


「まあ。この子が」


声まで上品だった。


もうひとりは男性。


深い紫と黒の装束。

衣の裾には蝶の翅を思わせる模様が散り、長い髪には紫の飾り紐。

静かな眼差しは冷たく見えるほど澄んでいる。


彼もまた凪へ視線を向ける。

その一瞬だけで、森の奥に立たされたような圧を感じた。


煙羅が煙管を指で回しながら言う。


「戻ったかい。入りな」


凪は慌てて頭を下げ、部屋へ入る。

後ろから鈴音、水伯、渓太も続いた。


煙羅は順に紹介する。


「こっちの麗しいのが、白鷺の妖怪——絹代」


絹代は袖口を整え、優雅に会釈した。


「はじめまして、凪さん。私は白鷺絹代。会えてうれしいわ」


「そ、そんな……こちらこそ」


凪がぎこちなく返すと、絹代はくすりと笑った。


煙羅はもう一人へ顎を向ける。


「そして、山側の面倒を見てる蝶妖——大紫」


男は短く言った。


「大紫だよ。よろしく」


それだけだった。


鈴音が凪の耳元でこそこそ囁く。


「ちょっと怖そうだけど、いい人だよ」


「聞こえている」


低い声に、鈴音の耳がぴんと立つ。


「ごめんなさーい!」


渓太が壁際に立ち、水伯は無言で座す。

自然と全員の視線が煙羅へ集まった。


煙羅はゆっくり煙を吐く。


白い煙が天井へ昇り、部屋の中央でほどけた。


「さて」


片目が凪を見る。


「今日は話し合いだよ」


凪の背筋が伸びる。


「……何の、ですか」


煙羅は少しだけ口元を上げた。


「決まってるだろう」


その場にいる妖怪たち全員の視線が、凪へ向く。


「——あんたのことさ」

凪の喉が、ひゅっと鳴った。


自分でも聞こえるほど小さな音だったのに、やけに大きく感じる。


座敷の空気は静かだった。

誰も責める顔はしていない。

それでも、名だたる妖たちに見つめられているだけで、落ち着かなくなる。


鈴音だけが、隣でのんきに尻尾を揺らしていた。


「わたし、凪のこと好きだよ」


「今は黙っておいで」


煙羅にたしなめられ、鈴音は「はーい」と素直に引っ込む。


煙羅は煙管を灰皿へ置いた。


「そんなに身構える必要はない。ただ、あんたをここへ置くかどうか。その話をしておきたいだけさ」


凪は瞬きをする。


「……置く?」


「この町に、という意味だ」


答えたのは水伯だった。

低く静かな声が、澄んだ水のように部屋へ広がる。


「人は本来、こちら側に長く留まるものではない」


渓太も腕を組んだまま続ける。


「妖気にあてられる者もいる。道を見失って帰れなくなる者もいる。記憶が曖昧な状態なら、なおさらだ」


凪は膝の上で手を握った。


それは昨夜から、どこかで感じていた不安だった。

ここは優しい。温かい。けれど、自分の場所ではないのかもしれない。


絹代が茶器を置き、やわらかく口を開く。


「でも、この子は怯えているだけではないわ」


凪を見る目は、春の陽だまりのように穏やかだった。


「今朝ここへ来たばかりなのに、ちゃんと礼を言って、周りを見て、居場所を汚さぬようにしている。そういう子は、そうそういないもの」


鈴音が勢いよくうなずく。


「そうそう! あと笑うとかわいい!」


「評価基準が軽いねぇ」


煙羅が呆れたように言うと、部屋に少しだけ和んだ空気が流れた。


だが、大紫だけは黙っていた。


長い睫毛の影を落としながら、凪をじっと見ている。

森の奥から獣に見られているような、逃げ場のない視線だった。


やがて彼は口を開く。


「問題は善悪ではない」


低く、よく通る声だった。


「人がここへ迷い込む時には、理由がある」


凪の肩が小さく揺れる。


大紫は続ける。


「偶然ではなく、流れでもなく、何かに呼ばれて来ることがある」


部屋の温度が少し下がった気がした。


「この娘が、何に導かれて来たのか。それが分からぬまま留め置くのは危うい」


凪は思わずうつむいた。


自分でも分からない。

なぜここへ来たのか。

何を失くして、何から逃げて、何を忘れたのか。


答えられるものが何ひとつない。


沈黙を破ったのは、煙羅だった。


「もっともな意見だ」


意外なほどあっさりと認める。


凪の胸がきゅっと縮む。


やはり、自分は帰されるのだろうか。


けれど煙羅は、次の瞬間、凪を見て言った。


「だからこそ、手元に置く」


全員の視線が煙羅へ向いた。


水伯が眉を寄せる。


「煙羅」


「外へ放り出して何か起きる方が面倒だろう?」


煙羅は平然としている。


「この町のことも、自分のことも分からない娘を一人にするほど、あたしらは冷たくないはずだ」


渓太が小さく息をつく。


「……理屈は通る」


絹代は嬉しそうに微笑んだ。


「最初からそう言うと思っていたわ」


大紫は目を閉じ、しばし考えるように黙った。

やがて静かに言う。


「条件がある」


煙羅が片眉を上げる。


「聞こうか」


「この娘にも、自分の足で立ってもらう」


大紫の視線が凪へ向く。


「守られるだけの客人ではなく、この町で過ごす者として」


凪は息をのんだ。


「できることをしろ。学べ。見るべきものを見ろ」


その声に威圧はあった。

けれど拒絶ではなかった。


煙羅がくつくつと笑う。


「だそうだよ、凪」


凪は皆の顔を見る。


煙羅。

鈴音。

渓太。

水伯。

絹代。

大紫。


誰も、自分を追い出そうとはしていなかった。


胸の奥が熱くなる。


凪は畳へ手をつき、深く頭を下げる。


「……お願いします」


声が少し震えた。


「何も分からない私ですけど、ここで……頑張らせてください」


しんと静まったあと、


「うん、よく言えました」


絹代が拍手した。


「えらい!」


鈴音も両手を叩く。


渓太は照れくさそうにそっぽを向き、水伯はわずかに目を和らげる。

大紫は何も言わなかったが、反対もしなかった。


煙羅は煙管をくわえ、ゆるく笑う。


「話は決まりだねぇ」


白い煙が、やわらかく揺れる。


「ようこそ、凪。帰る場所をなくした者の町へ」

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