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其ノ弐 朝餉と借り衣

朝、目が覚めたとき。

凪は、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。


見知らぬ木の天井。

障子越しに差し込むやわらかな光。

どこかで湯の沸く音がして、香ばしい匂いが漂っている。


身体を起こしたところで、昨夜のことが一気によみがえった。


提灯の町。

犬耳の少女。

紫髪の女。


「……夢じゃ、ないんだ」


呟いた声に、自分で少し驚く。


襖の向こうからばたばたと足音が近づいてきた。

次の瞬間、勢いよく開く。


「起きた!」


鈴音だった。


朝から元気が余っているらしい。

耳はぴんと立ち、しっぽが忙しなく揺れている。


「おはよ! お腹すいた? 顔洗う? 外見る? あ、煙羅さまが呼んでる!」


「ちょ、ちょっと待って」


凪が言うころには、もう手首を掴まれていた。


「待たなーい!」


廊下を引きずられるように進み、居間へ通される。


卓の向こうに、煙羅がいた。


朝だというのに気怠げな顔で座り、湯呑みを片手にこちらを見る。

煙管は今日は置いてある。


「おはようございます……」


凪がおそるおそる頭を下げると、煙羅は小さく目を細めた。


「律儀な子だねぇ。座りな」


卓には湯気の立つ味噌汁と、焼いた魚、小鉢が並んでいた。


「食べていいんですか」


「食べなきゃ困るのはこっちさ。倒れられても面倒だ」


言い方はそっけない。

けれど、味噌汁はちょうどいい温かさだった。


凪は「いただきます」と手を合わせる。


鈴音がすかさず身を乗り出した。


「ねえねえ」


「……なに?」


「わたしが連れてきたんだけど」


「うん」


「言うこと、あるよね?」


凪は数秒考えて、はっとした。


「あ……ありがとう」


鈴音のしっぽがぶん、と勢いよく振れた。


「えへへ!」


煙羅が呆れたように息をつく。


「朝から満足そうで何よりだよ」

煙羅はそう言って湯呑みを置くと、ふと凪の姿を上から下まで眺めた。


凪は箸を止める。


「……なんですか?」


「その格好さ」


視線の先は、凪の制服だった。


白い襟当てのついた紺のセーラー服。

胸元の結び紐。短いプリーツのスカート。

この家の中では、たしかに見慣れない装いだった。


鈴音もようやく気づいたように、ぱちぱちと瞬きをした。


「あ、ほんとだ。すごい目立つ」


「今さらかい」


煙羅は肩をすくめる。


「この町じゃ、妙に見慣れないものは余計な目を引く。あんたが何者か詮索されても面倒だ」


「……すみません」


「謝ることじゃないよ。知らなかっただけだろう」


そう言うと煙羅は立ち上がり、部屋の隅の箪笥へ向かった。

引き出しを開け、しばらく何かを探る音がする。


やがて戻ってきたその腕には、淡い藍色の着物と、簡素な帯が抱えられていた。


「ほら。これを使いな」


凪は目を丸くする。


「私に、ですか?」


「他に誰がいるんだい」


「でも……こんな綺麗なもの」


「貸すだけさ。遠慮される方が困る」


ぽす、と着物が凪の膝に置かれる。

柔らかな布の感触が指先に伝わった。丁寧に手入れされているのがわかる。


鈴音が身を乗り出す。


「着替えるの!? 見たい!」


「見るんじゃないよ」


煙羅の一言で、鈴音の耳がぺたりと伏せた。


「ぶー」


「ぶー、じゃない」


凪は思わず小さく笑ってしまう。

自分でも驚くほど自然に、口元が緩んでいた。


煙羅はそれを横目で見て、何でもないように言う。


「奥の部屋を使いな。着方がわからなければ鈴音に聞くといい」


「え、わたし? できるよ!」


「昨日、自分の帯を逆に結んでいただろう」


「……あれは、おしゃれ!」


煙羅は聞こえなかったことにしたらしい。

湯呑みを取り上げ、静かに茶を啜る。


凪は着物を抱え、そっと立ち上がった。


「ありがとうございます」


その言葉に、煙羅は視線だけを寄越した。


「礼はいい。似合うかどうか、あとで見せな」


奥の部屋へ入り、襖を閉める。


制服に手をかけたところで、凪はふと動きを止めた。


昨夜までいたはずの場所は思い出せない。

自分が何者かも、まだわからない。


それなのに今、自分のために用意された服がある。

朝食があり、呼んでくれる声がある。


胸の奥が、少しだけあたたかくなった。


「……変なの」


小さく呟き、凪は藍色の着物に袖を通した。

袖を通した布は、思っていたよりずっと軽かった。


制服の硬さとは違う、やわらかな重みが肩に落ちる。

帯は少し手間取ったが、なんとか形になった気がする。


凪は襖の前で深く息を吸う。


「……よし」


そっと襖を開ける。


居間では、鈴音が卓に突っ伏して退屈そうに尻尾を揺らしていた。

煙羅は湯呑みを手に、変わらず気怠げな顔で座っている。


襖の音に、二人が同時に顔を上げた。


数秒の沈黙。


先に声を上げたのは鈴音だった。


「わあ!」


飛び起きる。


「すごい! 似合う! なんかちゃんとこの町の子みたい!」


しっぽがぶんぶんと揺れて、今にも跳ね回りそうな勢いだ。


「ほんとほんと、さっきまで迷子って感じだったのに!」


「それ褒めてる?」


「褒めてる!」


凪は困ったように笑う。


煙羅は何も言わないまま、じっと凪を見ていた。

片目だけ細め、値踏みするように、けれどどこか遠くを見るように。


やがて、ふっと息をつく。


「……悪くない」


その一言だった。


けれど鈴音がすぐに抗議する。


「えー、それだけ!? もっとあるでしょ!」


「うるさいねぇ」


「かわいいとか、似合うとか!」


「朝から騒ぐんじゃないよ」


煙羅は湯呑みを置くと、凪へ視線を向け直した。


「帯、少し曲がってる。こっちへおいで」


「え?」


凪が近づくと、煙羅は立ち上がり、慣れた手つきで帯を整えた。

指先が布を引き、結び目を直し、乱れた襟元を軽く直す。


無駄のない手つきだった。


「これでいい」


「……ありがとうございます」


「今日は礼が多い子だねぇ」


煙羅はそう言いながら座り直す。


鈴音はにやにやしている。


「なんか家族みたい」


その言葉に、凪の胸が小さく跳ねた。


家族。


知らない言葉ではない。

けれど、自分の家族の顔は浮かばない。


それでも――今この部屋にいる空気は、少しだけそれに似ている気がした。


煙羅が卓を指で軽く叩く。


「しんみりするのは後にしな。凪、食べ終えたら店先を掃いておくれ」


「え、私が?」


「居候に仕事はつきものさ」


鈴音が元気よく手を挙げた。


「わたしもやる!」


「お前は三分で遊び始めるだろう」


「今日は五分!」


煙羅は呆れたように笑い、凪は思わず吹き出した。


見知らぬ町。

思い出せない過去。

それでも、朝はちゃんと来るらしい。

が笑い終えるのを見て、煙羅はふと動きを止めた。


湯呑みを持ち上げかけた手が、宙で止まる。


「……おや」


「どうしたの?」と鈴音が首をかしげる。


煙羅は少しだけ眉を寄せ、それから気だるげに息をついた。


「まだ名乗ってなかったねぇ」


部屋がしんと静まる。


凪は瞬きをした。


たしかにそうだった。

昨夜からずっと、この人を鈴音が呼ぶまま“煙羅さま”と認識していたけれど、本人の口から聞いてはいない。


煙羅は座り直し、姿勢を少しだけ整える。


長い紫髪が肩を流れ、片目が細くこちらを見た。


「私は煙羅」


白い指先で自分を示す。


「この家の主で、まあ……この辺りの面倒ごとを少し預かってる」


言い方は曖昧だったが、不思議と冗談には聞こえなかった。


鈴音が勢いよく手を挙げる。


「はいっ! 次わたし!」


誰も止めないうちに、胸を張る。


「送り犬の鈴音! 夜道案内、迷子発見、おつかい、かけっこ、なんでもできる!」


「なんでもは盛ったねぇ」


「できるもん!」


耳をぴんと立てて抗議する鈴音に、煙羅は肩をすくめた。


「で、あんたは凪。そこまでは聞いた」


煙羅の視線がやわらかく凪へ向く。


「名字は?」


凪の喉が、きゅっと詰まった。


名字。


答えようとして、何も出てこない。


頭の中に白い霧が広がる。

名前は凪。けれど、その先がない。


「……わから、ないです」


声が小さくなる。


鈴音のしっぽがぴたりと止まった。


煙羅は少しだけ間を置き、それから何でもないことのように頷いた。


「そうかい」


責める色は、まるでなかった。


「なら今は、凪でいい」


「……でも」


「名は呼べれば足りることもある」


煙羅は湯呑みを口元へ運ぶ。


「思い出したくなった時に思い出せばいい。急かして出るものでもないさ」


凪は俯いたまま、膝の上で手を握る。


すると鈴音が、ぐいと顔を覗き込んできた。


「だいじょうぶ!」


琥珀の目がまっすぐ笑う。


「名字なくても、凪は凪だよ!」


あまりに迷いのない言い方に、凪は思わず目を見開いた。


煙羅が呆れたように言う。


「たまにはいいこと言うじゃないか」


「たまにはってなに!」


また部屋に笑いが戻る。


その輪の中で、凪は胸の奥の固いものが少しだけほどけていくのを感じていた。

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― 新着の感想 ―
非日常に変わる描写が非常に自然に移っていく感じがして良いですね。凪の異世界スタートが、描写の細かさと合わせて、まるで自分が体験している感覚になります。ブクマしました。
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