第1話
最終章です。
「だからさ、俺は君とは添い遂げられない。いいこだから、俺と一緒に行こう?」
貴族のタウンハウスが密集し、比較的裕福な平民も住むきれいな街のメイン通り。
白昼堂々、ひと組の男女が痴話喧嘩を繰り広げていた。
「どうしてよ?! 私、貴方となら第二の人生を共に歩めるわ!」
女は編み上げた髪を隠すようにベールを被っている。一目で既婚者だとわかる格好なのに、周りなどお構いなしに自分よりも随分と若い男に詰め寄る。女の派手なドレスとは対照的に、青年は目立たない黒いケープを羽織っていた。
「私のこと、とうの立った女だと思っているんでしょう!」
そう叫ぶと女は泣き崩れた。詰め寄られた青年は、おろおろしながら女の前に屈み込んだ。屈んでも、身長の高さは際立つ。
「瑞々しさがなくなったとか、ベテランとか、年季が入ったとか。俺はひとつも思ったことはないよ」
「本当?」
涙に濡れた顔で、女は青年を見上げた。白に近い銀色の長い髪をかき上げて、青年は笑顔で頷いた。頬をぽっと赤く染めて、女はうっとりとした目で青年を見つめる。
「では、行こうか?」
「ええ! 貴方となら、天国でも地獄でも!」
「んー……そこまでは無理だけど。それは、おいおいってことで」
感極まった様子の女が、青年に抱きつこうとする。その手首をさっと掴んで、青年は女の耳元で何かを囁く。
次の瞬間、二人の姿は消えていた。
すぐ隣を歩いていた人たちは、誰一人としてその様子を気にしていない。
まるで、二人が見えていなかったように……。
古いが、手入れが行き届いている広い屋敷。一番豪華な寝室の壁際に、黒いケープをフードごと被った少年が立っていた。
部屋の奥の大きなベッドには、老人がひとり横たわっている。その周りには家族と思われる五、六人の男女が、悲痛そうな面持ちで、浅く呼吸をするだけの老人を囲んでいた。女性は皆、ハンカチで目元を押さえている。
少年はその様子を、感情の浮かばない漆黒の瞳で見つめていた。
「修道士様がいらっしゃいました」
部屋の扉が開き、くるぶしまである黒衣、カソックを着た壮年の男が執事に連れられて来た。
修道士は素早くベッドサイドまで行くと、老人に向かって祈りを捧げる。一同は、その様子を深刻そうに眺める。壁際の少年だけは、眉間に皺を寄せていた。
「大変です」
修道士が芝居がかった声を出す。
「ここには」
修道士は全員の顔をゆっくりと見渡してから、こう言った。
「死神がいます」
「!」
誰かの喉がヒュッと鳴る。女性は倒れそうになり、隣の男性がそれを支える。
「ど、どこに……。どうすれば、その死神を追い払えますか?!」
息子だろうか、中年男性が慌てたように修道士に詰め寄る。
修道士は目を細めて、ゆっくりと室内を見渡す。そして少年のいる壁際に視線を向けた。
「ほら。あそこの壁際に立っています」
修道士が指を指した方向に視線が集まる。
指先は、少年が立つ場所から少し外れていた。小さな悲鳴が上がる。
「あそこに白髪を振り乱した、老婆の死神がいます。こちらを見てニヤニヤと笑っている……」
修道士が忌々しそうに言うと、寝室中がパニックに陥る。修道士は騒ぎを収めるように手を上げた。
「皆さん、大丈夫です! 死神が最も恐れるのは修道院で清められた、この聖なる水です」
修道士は聖なる水の説明を始める。その巧みな話術に家族は夢中になり、誰一人として老人に目を向ける者はいなかった。
少年は相変わらず、修道士を胡散臭そうな目で見ていた。
詳しい話を……やがて、寝室にいた者全員が、修道士と共に部屋を出ていった。
扉が閉まる瞬間、一匹の黒い猫が寝室に入って来た。首には赤いリボンを付けている。老人が飼っているのだろう。猫は老人のベッドに飛び乗ると、老人の顔の隣に座る。
壁際にいた少年が、ゆっくりと老人に近づいた。老人にゴロゴロと甘えていた猫の体がビクリと跳ねる。
ガラスのような目の瞳孔が、激しく伸縮する。そして、少年に向かって体中の毛を逆立てた。
シャーッ!
小さな体が、精一杯の威嚇をする。少年は立ち止まり、肩をすくめた。
「見えてるんだ」
少年はそれ以上は老人にも猫にも近づかず、「また来るね」とだけ呟き、そっと扉から出て行った。
夜、少年は噴水の水音だけが響く公園に現れた。そして、木の根元を何やら念入りに探しだす。
やがて少年は、落ち葉の陰に一匹の毒虫を見つけた。緑の体に黒いまだら模様をしているその虫は、動きが明らかに緩慢になっている。
「お前は、まだだよ」
少年は虫に話しかける。強い風が吹き、少年のフードが外れかけた。
少年は風に靡く、くるくるした金色の髪を押さえつけて、フードを深く被り直す。
「もう少し、ここにいよう」
少年の呟きを理解したように、毒虫はのそのそと這いながら、落ち葉の中へと姿を消した。
「ねぇ、膝が痛くて歩けないわ。おぶって下さらない?」
「痛みはとっくに無いはずだけど。もちろん、任せて……おっと。これは、なかなか」
「重いでしょう? 重いわよね……子供を五人も産んだら、体型なんて構っていられなくてね」
「俺にとって女性は皆、羽根みたいに軽い。さ、行きましょう」
比較的、裕福な平民が住む町の商店街の真ん中で、白に近い銀色の長い髪を振り乱しながら、長身の青年が倍ほど体積のあるマダムをおぶっていた。
青年は数歩よろよろと歩くと立ち止まる、を繰り返す。時折、マダムに降りるように言ってみる。が、マダムは頑として膝が痛いと言い張り、ますます青年の背中にしがみつく。
「神様……」
天を仰いだ青年は、通りの向こう側から、じっとこちらを見ている少年に気づいた。
「タナトスッ!」
青年はマダムをおぶったまま、ものすごい勢いで通りを渡る。タナトスと呼ばれた少年は、逃げそびれたのを悟ると面倒臭そうな顔をした。
「仕事?」
「これが仕事じゃなかったら、何だと?」
青年は息を切らせながら、恨めしそうに少年に答える。
「この間も、通りの真ん中で痴話喧嘩してた」
青年は不服そうに顎を突き出した。
「三ヶ月。三ヶ月かかったんだよ、あのオバ……お嬢さんを連れて行くのに」
「ちょっと。誰と話してるのぉ」
青年の背中でマダムが甘えた声を出す。青年は首を回して、マダムにキラキラした笑顔を見せる。
「ヒュプノスも大変そうだね」
別に同情もしていない様子で、タナトスが言う。ヒュプノスと呼ばれた青年が、長い足でタナトスを蹴ろうとする。
「じゃ」
フードを被り直し、タナトスは人混みに消えて行く。ヒュプノスは何やら考えるように首を傾げたまま、タナトスの背中を見送った。




