第2話
「ゴホゴホッ。……来てくれたんだね」
青白い顔をしたルカが、力なく微笑んだ。
いつもの発作が起こった日。いつものように壁際に現れた黒いケープに、ルカは声を掛けた。
「うん。でも、毎日は来られない」
ルカの顔が曇る。返事の代わりに、ヒューヒューという呼吸だけが部屋に響いた。
「暇ができたら、また来る」
少年はルカには近づかない。ルカは少年に会えなくなるのが寂しかった。少年が踵を返した時、ルカの呼吸がやっと整った。
「名前は?」
少年は一瞬足を止めた。そして振り向きもせずに、ドアから出ていった。出ていく寸前、ルカの耳には少年の声が聞こえた。
「タナトス」
言った通り、タナトスはあの日からしばらく姿を現さなくなった。最近は発作が出ていない。
ルカは出ることのできないベッドの上で、何度も読んだ本に目を通したり、絵を描いたりして過ごした。
高い熱が出た日。
二週間ぶりにタナトスが姿を見せた。
「タナトス!」
少年は熱で潤んだ目を見開いて、ルカは嬉しそうに声を上げた。
タナトスは小さくため息を吐きながら、ルカの側まで歩いてくる。
「嬉しそうだね」
「うん! せっかく咳が出てないのに、話す相手がいないから」
ルカはそう言って、まっすぐタナトスを見つめた。
「今日は、僕?」
「……まだ」
「そう」
「今日も両親は遅そうだね」
「僕の薬は高いから……」
一瞬だけルカの顔が曇る。けれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ねえ、見て」
ルカは体を起こし、ベッドの近くにある粗末なテーブルを指差した。タナトスの視線が、ルカの指先を辿る。
「それ、少し前に窓から入って来たんだ。ママは捨てろって騒いでいたけど、パパが……」
テーブルには、小さな虫かごがポツンと置かれていた。
「毒虫だ」
ルカの話を遮って、タナトスが虫かごに向かう。
「ママもパパも、気持ち悪いって言うんだ」
「人間って、そう言うね」
虫かご越しに毒虫を撫でながら、タナトスはぽつりと呟いた。
「かっこいいのに……」
少し拗ねるルカの顔を驚いたように見てから、タナトスはポツンと言った。
「緑に黒のまだらが、かっこいい」
「本当に、そう!」
ルカは嬉しそうに何度も頷いた。二人はしばらく、毒虫の好物について話した。
「鳥の骨が好きだと思う」
「えっ。うちではいつも葉っぱを食べてるよ。骨は変だよ」
「そうかな」
ルカは、タナトスが次は何を言い出すのか楽しみだった。
ルカの体調はゆっくりと、しかし確実に悪くなっていく。
ルカ自身が、もうダメだと思うほど苦しい時には、昼夜関係なくタナトスが現れるようになった。
ルカの呼吸が落ち着くと、タナトスは毒虫を撫で、何も言わずに消える。そんな日が続いた。
「今日は早いね」
「仕事が終わったから」
「今日は、僕?」
「まだ」
挨拶のように繰り返されるやり取りに、タナトスは表情を変えない。ルカにも、ほっとした様子も悲しむ様子もない。
二人はまた、毒虫について話した。
「脱皮するのかな?」
「わからない」
「毒虫、好きなのに?」
「別に」
ルカは、両親と医者以外の人と話したことがほとんどなかった。掴みどころがないタナトスと、もっと話したかった。けれど会話というものは難しい。
次は何を話そうか。
そんなことを考えながら眠りにつくのが、ルカの日課になった。
「今日は、僕?」
「まだ」
「ふーん」
その日は、突然階下から赤ん坊の泣き声がした。どうやら、タナトスにも聞こえたらしい。
「あれ、何?」
「昨日生まれたんだって。女の子だってさ。ママが言ってた」
赤ん坊の鳴き声が大きくなるにつれて、タナトスの肩がびくっと震える。
「嫌いなの? 赤ちゃん」
見たことのないタナトスの反応に、ルカが興味津々といった顔をする。
「嫌いっていうか、怖い。力が凄すぎる」
ルカはタナトスの言っている意味がわからなかった。赤ん坊の力なんて知れているのに。
首を傾げるルカをよそに、タナトスは急ぎ足で虫かごに向かった。
「今日は、僕?」
「まだ」
「ふーん。今日は、誰?」
「知らない人。変わった人だった」
「人以外は?」
「まだ。人とは思えないぐらい、煩いのはいた」
ふふ、とルカが笑う。タナトスは毒虫を指に乗せて遊んでいる。ルカはなぜか、その景色を忘れたくないなと思った。
風が冷たくなった日。
タナトスが壁際に現れてだいぶ経ってから、ようやくルカが弱弱しく口を開いた。
「今日は、僕だよね」
「うん」
いつもと同じ口調と声色で、いつもと違う答えをしたタナトスに、ルカはゆっくりと頷いた。
「そう」
タナトスは何も言わない。ただ、じっと立っていた。
「やっと、外に出られる」
少し困ったような笑みを浮かべながら、ルカが言った。
タナトスは、漆黒の瞳でルカを見つめる。
「この子、連れて行っていい?」
ルカが虫かごを見る。タナトスは、ルカから毒虫に視線を移した。タナトスはじっと毒虫を見ていた。そして、息をひとつ吐くと、毒虫に話し掛ける。
「死神に魅入られたと思って、諦めてね」
虫かごの毒虫が、ほんの少し動いた気がした。
ルカは瞳を閉じた。




