第1話
王都から少し離れた、ごちゃごちゃとした平民街。同じようなアパルトメントが、支え合うように立ち並んでいる。建物は木造だが五階建てが多く、どれも古びていて、お世辞にもきれいとは言えない。外壁は所々剥がれ、雨に濡れた木の匂いが路地に漂っている。
意外なことに街は人で賑わい、活気に溢れていた。毎日の暮らしに追われながらも、精一杯に働く人々の声が至る所から聞こえる。
その中でも一際古く、陽が当たらないそのアパートは、危うい角度で路地へと迫り出していた。
アパートの最上階の角部屋。通りからだいぶ入り組んだところにあるせいか、そこだけは喧騒から切り離されたように静かだった。
その部屋に、ルカはいた。
七歳になったばかりのルカは、一日のほとんどを古びたベッドで過ごしていた。窓はあるが、すぐ隣の外壁と細く見える空が唯一の景色。それでもルカは、その僅かな青を見るのが好きだった。
ルカはいつも通り、母親が準備した昼食を少しだけ食べると、ウトウトして過ごした。
遠くに聞こえる馬車の音、誰かの笑い声、怒鳴る声……。それが、ルカの世界の全てだった。
「……タナトス」
それぐらい眠ったのだろうか。眠りから覚めたルカは、壁際に立つ人影を認識する。
「うん」
いつからいたのか。壁にもたれ掛かるように立っていたタナトスが、短く返事をした。
「今日は早いね」
「仕事だったから」
ルカは、目に掛かるほど伸びた蜂蜜色の前髪を、指で払いながら尋ねた。
「今日は僕?」
タナトスと呼ばれる、ルカより少し大きな少年は、顔色を変えずに答えた。
「まだ」
「そっか」
ルカも特に気にした様子もなく返事をする。
ルカは物心ついた時にはすでに、ベッドから出られないのが普通だった。
父のジェムと母のシーラは、とても優しく楽しい。ルカは二人に叱られた記憶がない。この小さな部屋には、三人で笑い合う時間がたくさんあった。
しかし、ジェムとシーラはいつも留守にしていた。
二人はルカの薬を買うために、朝早くから夜遅くまで働いている。大きくなるにつれて、ルカはそのことを理解した。
両親に寂しいと泣きつかなくなった頃、ルカはタナトスを認識するようになった。
最初は、ルカの発作が止まらなくなった夜だった。
ルカを抱きしめるシーラの肩越しに、医者を呼びに走るジェムをルカはぼんやりと見ていた。その視界の端に、真っ黒なケープをフードごと被った男が映った。男は壁際に佇んでいる。
はあはあと途切れる息の中で、ルカはシーラにその存在を知らせるため、震える指を持ち上げた。
しかし、泣き叫ぶシーラには届かない。喉が切り裂かれるような痛い咳が出る。口の中が鉄臭い。
壁際の男は、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
ルカはなぜか怖くはなかった。気を抜くと寝てしまいそうな感覚の中、ルカはケープの中の顔を見たくて何とか手を伸ばした。
近づく男のフードに、もう少しで手が届く。
フードの男はゆっくりと、ルカの手首を掴もうとした。
「ルカッ! お医者様がいらしたっ」
その瞬間、ドアが乱暴に開けられ、ジェムが医者を連れて戻ってきた。そこから先の記憶はない。気づいた時には、ケープの男はいなくなっていた。
それからだった。
深夜に咳が止まらなくなった時。日中、熱が急激に上がった時。必ず、黒いケープの男はいた。
男は必ずルカに手を伸ばす。ルカがその手を掴もうとした瞬間、男は消えた。
そんなことが、何度となく続いた。
ある日、ベッドに横たわったままのルカは、朝食も昼食も取らずに激しく咳き込んでいた。
壁際に感じるいつもの気配。苦しさの余り、ルカは初めてその男に向かって声を掛けた。
「……もう、連れてってよ」
ゆっくり近づいていた男が足を止める。血の混じった湿った咳をしながら、ルカは目を閉じた。苦しいせいか、目からは涙が溢れる。
早く早く、早く……。
その時、ルカは背中に冷たい感覚を覚えた。男が、ルカの背中をゆっくりと摩っているのだ。ルカはまた、精一杯咳をした。
どれぐらい時間が経っただろう。ゆっくり、ゆっくり、ルカの発作は治っていった。
「……冷たいよ、手」
ようやく落ち着いたルカが、顔を上げる。ぼんやりとしていた焦点が男を捉えた。
フードが後ろに下がっていて、男の顔が見えた。
ルカは驚いた。
「男」だと思っていたその人物は、自分より少しだけ年上に見える少年だったからだ。
少年は、くるくるした金髪の髪をくしゃくしゃと掻き上げた。どことなく後悔しているようなその行動に、ルカは申し訳なくなる。
「ご、ごめんね。ありがとう」
少年は驚いたように、その漆黒の瞳でルカを見つめた。
「こちらこそ。勝手に触っちゃった」
ルカはまた驚いた。想像していたよりはるかに高い声だった。子供の声なのに、どこか掠れている。
その日からルカは、少しだけ年上に見えるその少年に会うのが楽しみになっていった。




