第9話 歪みを…見せる
広場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
「見て見て、勇者様よ! 本物!」
「悪役令嬢様まで!? 生で見られるなんて!」
「隣領の男爵様も来てるってよ! じれじれ男爵!」
集まった群衆は、まるで祭りでも始まるかのように沸き立っていた。壇上に五人が姿を現すと、歓声はさらに大きくなった。旗を振る者、屋台の食べ物を頬張りながら指を差す者、子供を肩車して壇上を覗き込む者。誰の顔にも、これから何か面白いものが見られるという、無邪気な期待だけがあった。
「宰相様まで! これは、ついに真相が明かされるのでは!?」
「断罪ですか!? 誰かが断罪されるんですか!?」
ヤジとも歓声ともつかない声が、あちこちから飛ぶ。
「男爵様ぁ! ロゼ様とはどこまで進んだんですかぁ!」
「勇者様、今日こそ本当の実力見せてくださいよぉ!」
「悪役令嬢様、次は誰をいじめる予定ですかぁ!」
セラフィナの肩が、わずかに強張った。エドヴァルドは、拳を握りしめた。ガレスは、深く息を吸い込んだ。壇上に立つ五人の背に、数百の視線が突き刺さっている。それは敵意ではなく、もっと軽い、娯楽を求める視線だった。だからこそ、逃げ場がなかった。
そのとき、群衆の中から、少し違う方向の声が上がった。
「ねえ、男爵様と悪役令嬢様って、並んでるとなんか……」
「身分差カップル、推せるかも……」
「えっ、それあり? 鈍感男爵と、表向きは厳しいけど実は優しい令嬢?」
「禁断の関係感あるよね」
「ロゼ様はどこ行くのよ!」
「三角関係もいいんじゃない?」
エドヴァルドが、思わず顔を引きつらせた。セラフィナは、頭巾——今日は隠すつもりのなかったその素顔を、群衆の前に晒したまま、指先だけを強く握りしめている。アルヴィンは、そのやり取りを聞いて、右目の奥が熱を帯びるのを感じた。彼らは、まだ何も始まっていないのに、すでに次の物語を作り始めていた。昨夜の懇談で、確かに笑い合ったはずの五人が、今、また勝手な役に塗り替えられようとしている。
宰相が、静かに一歩前に出た。それだけで、潮が引くように喧騒が収まっていく。長年、この手の場に立ち続けてきた者の重みだった。
「今日、皆様にお集まりいただいたのは」
「宰相様の悪事、ついに認めるんですか!」
誰かが叫び、周囲がどっと沸いた。宰相は、表情ひとつ変えなかった。だが、その手の中で、書類を持たない拳が、わずかに白くなっていた。
「いいえ。私はこれまで、誰かを陥れたことは一度もありません」
「またまた、ご謙遜を!」
「そういうところが怪しいんですよ!」
笑いを含んだヤジが飛ぶ。宰相は、それでも淡々と続けた。
「私だけではありません。ここにいる四人も、皆様の噂とは、まったく異なる現実を生きています」
エドヴァルドが、震える声で続く。喉の奥が、痛いほど熱かった。三年間、言えなかった言葉を、ようやくロゼに向けて言おうとした、あの午後を思い出していた。
「俺は、鈍感でも難聴でもない。三年間、ずっとロゼ嬢のことを想ってきた。今日こそ言おうと決めた日に、限って邪魔が入る。それが何度も、何度も続いた。笑い話じゃない。俺にとっては、人生で一番大事な言葉なんだ」
一瞬、広場が静まった。だがそれは、聞き入ったからではなかった。ただ、次の反応を選ぶための、一拍の間だった。
その静けさの隙間に、エドヴァルドは思わず、昨夜のままの口調で続けてしまった。
「……分かってくれよ。俺だって、シャツの裾出したまま来るような、ただの男なんだよ。じれったいとか、色男とか、そんな大層なもんじゃない」
言った瞬間、しまった、と思った。だがもう遅かった。
「またまた、照れ隠しですね!」
「じれったいのが、また良いんですよぉ!」
「でも悪役令嬢様との路線も捨てがたい!」
群衆の声は、止まらなかった。エドヴァルドの声は、笑い交じりのヤジに、次々と塗り替えられていく。彼の手が、壇上の手すりを強く掴んだ。指の関節が、白く浮き上がった。
「……聞いてくれよ」
その声は、もう歓声にかき消されて、誰にも届いていなかった。
ガレスが、代わりに前へ出た。稽古着の袖が、朝の風に揺れる。毎朝五キロ走り、素振りを千回続けてきた三年間。その一日一日を、彼は思い出していた。指にできた剣胼胝、寝る前に必ず確認する明日の稽古予定、誰も見ていない早朝の鍛錬場。
「僕は、無自覚な天才なんかじゃない! 毎日、死ぬほど鍛錬してるんだ! 剣の重さも、素振りの回数も、全部覚えてる! それを、努力とも呼ばれないまま、勝手に才能にされるのが、一番つらいんだ! それを、誰にも否定させたくない!」
声が、掠れた。喉に、鉄の味がするほどの声だった。
「さすが勇者様! そういう努力を、努力とも思わないところが、本物の才能ですよね!」
「『えっ、俺なんかやっちゃいました?』って言いそう!」
歓声が、彼の否定さえも、称賛に変換していく。ガレスの顔が、みるみる青ざめた。握った拳が、震えていた。
「言ってない……! 俺は、そんなこと、一言も言ってない……!」
その叫びさえも、群衆の耳には、謙遜の続きにしか聞こえなかった。誰かが「またまたぁ」と笑い、隣の誰かがそれに同調して笑った。笑いの波が、彼の声を飲み込んでいく。
ガレスは、拳を握ったまま、一瞬だけ、昨夜の軽口の調子に戻った。
「あのな……俺、割と口が悪いんだよ。宰相様にも失礼なこと言うくらい、素はガサツなんだ。そんな、詩に歌われるような孤高の男じゃねぇんだよ」
だがその声は、笑いに紛れ、拍手にすら変わっていった。「またまたご謙遜を」と、誰かが嬉しそうに繰り返した。
セラフィナが、震える声で言葉を絞り出した。頭巾を外したままの顔に、初めて、はっきりとした怒りの色が浮かんでいた。
「私は、悪役ではありません。ただ、友人を大切にしているだけです。ミアの手を取ったのは、針の持ち方を教えるためです。転んだ彼女に駆け寄ったのは、目の前で人が倒れたからです。それの、どこが罪なんですか」
「はいはい、そういうことにしておきましょう!」
「次は、その友人を裏切るんですよね! 分かってますよ!」
「男爵様を奪う展開もありじゃね?」
嘲笑にも似た明るい声が、あちこちから返ってくる。誰一人として、まともに耳を傾けている者はいなかった。セラフィナの目に、涙が滲んだ。だが彼女は、それを拭わなかった。ただ、拳を握りしめ、群衆を見据え続けた。
「……昨日の夜、私、笑ったんです。頭巾を外して、皆さんと、ただの世間話をして。あんな風に笑ったのは、久しぶりでした」
声が、少しだけ震えた。
「それだけなんです。私は、悪役でも、聖女でもない。ただ、笑ったり、疲れたりする、一人の人間なんです」
群衆の誰かが「良いお話ですこと」と茶化すように言い、また笑いが広がった。セラフィナは、それ以上、何も言わなかった。
アルヴィンは、目の前の光景に、めまいすら覚えた。真実を語れば語るほど、群衆はそれを、さらに都合の良い物語へと作り替えていく。まるで、言葉そのものが、届く前に別の形へと変質させられているようだった。
昨夜、この四人と笑い合った時間が、脳裏をよぎった。エドヴァルドのシャツの裾。ガレスの噴き出す声。セラフィナの、初めて見た笑顔。宰相の、「楽になります」という短い一言。
——それを、こんな連中に、壊させてたまるか。
右目の奥に、これまでにない熱がこもった。
「……もう、いい」
アルヴィンは、拳を強く握りしめた。指の関節が白くなった。
「これだけ言っても、伝わらないなら」
右目の奥に、熱がこもる。これまで何度も、個人の記憶や心を覗くために使ってきた力。だが今、アルヴィンが解き放とうとしていたのは、それよりも遥かに大きな、広場全体を覆う"歪み"そのものだった。
「見せてやる。この歪みの正体を、俺だけじゃなく、ここにいる全員に」
魔眼が、これまでにない強さで輝き始めた。
広場の空気が、一瞬にして凍りついた。
広場全体が、光に包まれた。
いや、光ではなかった。それは、これまでアルヴィンだけが視てきた、無数の淡い糸だった。だが今、その糸は、広場に集まった誰の目にも、はっきりと映っていた。
「な……なんだ、これは……」
誰かが、掠れた声を漏らした。
人々の頭上を、細い糸が縦横に走っていた。誰かの口から出た一言が、隣の人間の認識をわずかに震わせ、その震えがまた次の糸を生み、伝播していく様が、今、誰の目にも見える形で晒されていた。
「男爵様は鈍感……」
誰かがそう呟いた瞬間、その言葉から伸びた糸が、エドヴァルドの方へ向かって震えながら伸びていくのが見えた。エドヴァルドの姿を微かに歪め、「じれったい男爵」という輪郭を、無理やり上塗りしようとしているのが、はっきりと分かった。
「勇者様は無自覚……」
ガレスの周りでも、同じことが起きていた。糸が絡みつき、彼の「努力した」という叫びを、途中で「謙遜」という形に捻じ曲げていく様子が、視えた。
「男爵と令嬢、身分差で推せる……」
その声から伸びた糸が、エドヴァルドとセラフィナの間を、不自然に繋ごうとする。二人の間に、存在しない関係性の輪郭が、薄く浮かび上がっては消えた。
群衆は、言葉を失った。
「私たち……今……何を、していたんだ……」
先ほどまでヤジを飛ばしていた男が、呆然と自分の口元を押さえた。
「俺、さっき、男爵様に、告白の邪魔されるのが良いって……なんで、そんなこと言ったんだ……」
「私も、悪役令嬢様に、次は誰をいじめるのかって……あの方、ただ、お友達を大事にしてるだけなのに……」
「身分差カップルとか、急に言い出して……何だったんだ、あれ……」
一人、また一人と、自分がついさっき口にした言葉を思い出し、青ざめていく。誰も、悪意があったわけではなかった。ただ、目の前の「面白そうな物語」に、無意識に手を伸ばしていただけだった。それが、今、糸という形で可視化されたことで、初めて自分自身の行為の輪郭を、まざまざと突きつけられていた。
広場の中心――五人が立つ壇の遥か上空に、糸が幾重にも束ねられ、渦を巻いている場所があった。そこには、やはり顔も輪郭もなかった。ただ、飢えだけが、そこにあった。
群衆のどよめきが収まらぬ中、宰相が、静かに、しかしよく通る声で言った。
「これが、皆様が、無意識のうちに私たちに押し付けていたものです」
誰も、反論しなかった。反論できる者は、もう誰もいなかった。
エドヴァルドが、震える声を絞り出す。先ほどまでの怒りが、今は、もっと静かな、切実な響きに変わっていた。
「私たちは、物語の登場人物ではありません」
「ただ、自分の人生を、生きているだけなんです」
ガレスが、拳を握りしめたまま、天を仰いだ。喉から、絞り出すような声が漏れた。
「僕の努力を、僕の努力のまま、見てほしかった。それだけなんだ」
セラフィナが、群衆に向き合ったまま、静かに、しかしはっきりと言葉を継いだ。頬に、一筋の涙が伝っていた。
「私はただ、友人を大切にしているだけの、一人の人間です」
広場を覆っていた糸が、ゆっくりと、力を失うように薄れていった。誰の口からも、次の言葉が出てこなかった。渦の中心にあった飢えも、やがて輪郭を失い、溶けるように消えていく。
静寂だけが、広場に満ちた。
やがて、誰かが、ぽつりと呟いた。
「……俺たち、何を、見てたんだろう」
その言葉に、答える者は、誰もいなかった。ただ、皆が、自分の内側にあった何かに、今初めて気づいたような、そんな顔をしていた。
壇上で、エドヴァルドが、隣に立つセラフィナに、小さく声をかけた。
「……言えましたね」
「ええ。あなたも」
「泣いてます?」
「泣いてません」
セラフィナは、頬の涙を拭わないまま、そう答えた。エドヴァルドは、それ以上何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
アルヴィンは、右目を押さえたまま、ゆっくりと膝をついた。熱は、もう引いていた。代わりに、深い疲労と、それを上回る何かが、胸の中に残っていた。
ガレスが、その肩に手を置いた。
「よくやった」
「……勝手に、やってしまいました」
「いいんだよ。あれで、伝わった」
宰相だけが、まだ表情を変えないまま、静まり返った群衆を見渡していた。だがその目には、これまでの淡々とした色とは、わずかに違う、何かが宿っていた。




