第8話 誰も悪くない
日が暮れても、五人は宰相府の一室に残っていた。誰も、席を立とうとはしなかった。
最初に沈黙を破ったのは、意外にもエドヴァルドだった。
「あの、聞いていいですか。セラフィナ様は、その頭巾、まだ外さないんですか」
「……外す理由が、ありませんので」
「いや、ここ、俺たち以外誰もいないですし。あと単純に、ずっと俯いてらっしゃると、話しかけづらいというか」
セラフィナは、少しの間、答えなかった。頭巾の端を指で弄びながら、やがてぼそりと言った。
「……外したら、また『素顔を晒して同情を誘っている』とか言われそうで」
「言われないですよ、ここでは」
「なぜ、言い切れるんです」
「だって、俺たち全員、似たようなことで疲れてるじゃないですか。俺なんて、庭でベンチに座ってるだけで『三年越しの覚悟』とか噂されてるんですよ。もう何やっても誰かに解釈されるんです。だったら、ここくらい、素で座っていいと思います」
セラフィナは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頭巾を外した。
外の光ではなく、部屋のランプの灯りの下で見る彼女の顔は、思っていたよりずっと若く、そして疲れていた。目の下に、うっすらと隈がある。
「……ありがとうございます」
「いえ。俺、令嬢様に礼を言われる立場じゃないですけど」
ガレスが、その様子を横目に見ながら、小さく笑った。
「男爵、思ったより普通の人だな」
「なんですか、その言い方」
「いや、『じれったい男爵様』ってあだ名から、もっとこう、辛気臭い人を想像してたんで」
「俺だって、『無自覚な天才』からは、もっと澄まし顔の人を想像してましたよ」
「澄まし顔って」
「だって伝記のタイトル、『無自覚なる勇者、その孤高の道』ですよ。孤高て」
ガレスが、思わず噴き出した。稽古着の袖で口元を隠しながら、肩を震わせている。
「孤高て、俺、さっきまで稽古着のまま走ってきたんですよ。全然孤高じゃない」
「ですよね。俺も、噂だと『色男』らしいですけど、今日、着替えを執事に邪魔されて、シャツの裾が出たまま来ました」
「本当だ、出てる」
「言わないでください」
小さな笑いが、部屋に生まれた。それは、これまでの重たい沈黙とは、違う質のものだった。
アルヴィンが、その空気を見ながら、ぽつりと呟いた。
「……皆さん、案外、普通に喋れるんですね」
「アルヴィン殿は、あんまり喋らないですね」
エドヴァルドが尋ねると、アルヴィンは少し目を伏せた。
「すみません。ここ最近、まともに人と話す機会が、なかったので」
「取引先に、全部逃げられたって話でしたっけ」
「はい。婚約者にも、逃げられました」
言葉にすると、思っていたより軽く出た。自分でも、少し驚いた。
「……それ、笑っていいところじゃないですよね」
「いえ、もう、笑うしかないので」
アルヴィンが、ふっと息を吐くように笑った。ガレスが、その肩を軽く叩いた。
「分かる。俺も、伝記に『えっ、俺なんかやっちゃいました?』って書かれたとき、もう笑うしかなかった。言ってねぇんだよ、そんなこと」
「言ってなさそうですもんね、ガレス様」
「だろ。俺、割と口が悪いんだよ、実際は」
「知ってます。さっき『そういうところが逆に腹黒いって言われる原因なんじゃないですかね』って、宰相様に結構失礼なこと言ってましたし」
宰相が、書類を整理する手を止めずに、静かに口を挟んだ。
「失礼だとは思いませんでした。事実の指摘として、興味深く聞いておりました」
「ほら、そういう返し方が」
「腹黒い、と」
「はい」
「では、腹黒くない返し方を、教えていただけますか」
ガレスが、答えに詰まった。エドヴァルドが、思わず笑った。
「宰相様、それ絶対わざとですよね」
「さあ。私には分かりかねます」
その返しに、セラフィナまでもが、口元をわずかに緩めた。頭巾を外したままの顔で、小さく笑うのを見て、エドヴァルドは少し驚いたように目を瞬かせた。
「セラフィナ様、笑うんですね」
「……おかしいですか」
「いえ。噂だと、いつも冷たい目で人を見てるらしいので」
「それは、噂です」
「知ってます。俺の噂も、大体そうなので」
しばらく、他愛のない話が続いた。エドヴァルドが庭師の手帳の話をすると、ガレスが「うちにも似たような記録係がいる」と応じ、セラフィナが「私の場合は侍女です」と付け加えた。アルヴィンは、その一つ一つに頷きながら、右目の奥の熱が、いつの間にか凪いでいることに気づいた。
「……不思議です」
アルヴィンが、ぽつりと言った。
「一人で抱えてたときは、ずっと『誰にも分かってもらえない』と思ってました。でも、こうして話してると、なんというか」
「分かる、って言ったら、安っぽいですかね」
エドヴァルドが、控えめに言葉を継いだ。
「いえ。安っぽくないです。ちゃんと、分かってもらえてる気がします」
その言葉に、誰も茶化さなかった。ただ、それぞれが、小さく頷いた。
宰相だけが、その輪から少し離れた場所で、書類の端を静かに揃え続けていた。だが、その手の動きは、先ほどよりも、幾分か緩やかだった。
「……宰相様は」
セラフィナが、思い切ったように声をかけた。
「先ほどから、ずっと書類を整理してらっしゃいますけど、今、必要な作業なんですか」
「いえ。手を動かしていないと、落ち着かないだけです」
「緊張、してるんですか」
「かもしれません。他人と、こうして雑談をするのは、久しぶりなので」
その答えに、四人は顔を見合わせた。ガレスが、少し意地悪く笑った。
「宰相様も、緊張するんですね」
「意外ですか」
「意外というか、ちょっと安心しました」
宰相は、それ以上何も言わなかった。ただ、書類を整えていた手を止め、静かに四人を見渡した。
「……皆さんと話していると、少し、楽になります」
短い言葉だった。だが、その一言に、部屋の空気が、わずかに柔らかくなった。
窓の外では、月が高く昇り始めていた。誰からともなく、次の話題に移った。エドヴァルドがロゼとの馴れ初めを話すと、セラフィナが「それは、ロゼ様も大変でしたね」と茶々を入れ、ガレスが「その執事、絶対わざとだって」と断言し、アルヴィンが小さく笑いながら聞いていた。
誰も、まだこれからのことを、はっきりとは決めていなかった。
だが、この部屋にいる五人は、もう、それぞれ一人で噂と戦っていたときの五人ではなかった。
「……そろそろ、日程の話をしましょうか」
宰相が、ようやくそう切り出したとき、外はすっかり夜になっていた。誰も、名残惜しそうな顔はしなかったが、立ち上がる動きは、どこか緩やかだった。
数日後、広場に、五人を呼び出す告知が張り出された。




