第10話 普通の日々
広場でのあの日から、季節はひとつ、静かに巡った。春の終わりの風が、夏の気配を運び始める頃。街路樹の葉は深みを増し、石畳に落ちる影の形が、少しずつ変わっていった。特別な合図があったわけではない。ただ、朝の光の角度が変わり、夜の長さがわずかに伸び、人々の歩調が、いつの間にか以前の速さに戻っていった。
エドヴァルドとロゼの婚約は、誰の邪魔も入らないまま、静かに、しかし着実に整っていった。告白の言葉は、拍子抜けするほどあっさりと交わされた。庭園のベンチで、風がバラの香りを運ぶ午後。エドヴァルドは、三年分の言葉を、ようやく短く、正直に口にした。ロゼは、ただ小さく笑って頷いただけだった。特別な演出も、劇的な展開もなかった。指輪の感触だけが、指の腹に残った。
「拍子抜けだったな」
夜、私室でエドヴァルドが呟くと、執事が澄まし顔で答えた。
「良いことでございます、旦那様」
窓の外では、虫の声がゆっくりと溶け合っていた。
ガレスは、相変わらず毎朝の鍛錬を続けていた。剣を振るたびに、冷たい空気が頬を撫でる。汗が額を伝い、呼吸が白く揺れる。ただ、以前とは違い、周囲は彼の努力を、努力のまま受け止めるようになっていた。「今日も鍛錬、大変ですね」と声をかけられる度、ガレスは少しくすぐったそうに、けれど確かな安堵をもって頷いた。伝記のタイトルから「無自覚なる」の文字が消えたのは、それから間もなくのことだった。
セラフィナとミアは、変わらず友人として過ごしていた。刺繍枠を並べ、庭を歩き、たまに他愛のない喧嘩をする。針を通す音が、午後の部屋に小さく響く。噂は、もう二人の間に割り込んでこなかった。窓の外を庭師が通っても、視線を合わせることは稀になった。ただ、風がカーテンを揺らす音だけが、静かに残った。
アルヴィンの商売は、少しずつ立て直りつつあった。特別な奇跡が起きたわけではない。ただ、真っ当な取引を、真っ当に積み重ねただけだった。帳簿の数字が、ゆっくりと、しかし確かに黒を取り戻していく。夜、灯りの下で筆を走らせるとき、右目に熱が戻ることは、もうほとんどなかった。
宰相は――相変わらず、机の上に書類の山を築いていた。
「忙しさは、変わりませんね」
ある日、視察に訪れたアルヴィンがそう声をかけると、宰相は珍しく、微かに息を吐いた。笑いというより、ただの呼吸に近かった。
「ええ。ですが、少なくとも、誰かを陥れているという噂だけは、聞かなくなりました」
部屋には、相変わらず紙とインクの匂いが濃かった。窓から差し込む光が、積まれた書類の端を白く照らしている。それだけの景色だった。
特別な事件は、何も起きなかった。世界が劇的に変わったわけでもなかった。ただ、それぞれの日々が、それぞれの速さで、静かに続いていくだけだった。
それこそが、五人が本当に望んでいたものだった。




