第6話 宰相との対話
宰相府の扉は、想像していたよりもずっとあっさりと開いた。
アルヴィンは、面会の申し出が却下されることを覚悟していた。だが取次の役人は、名前を聞くと、意外にもすぐに奥へと通した。廊下を歩きながら、アルヴィンは拳を強く握りしめていた。指の関節が、まだ昨夜の痛みを覚えている。
「……お待たせしました」
執務室の机には、書類の山が三つほど積み上がっていた。その向こうから顔を上げた宰相は、想像していたよりも、ずっと疲れた顔をしていた。目の下の影が濃く、指先にはインクの染みが複数ついている。部屋には紙とインクの匂いが強く、窓は半分だけ開かれていたが、空気は淀んでいた。
「あなたが、アルヴィン殿ですか」
「ご存じ、なんですか」
「いえ。先ほど、名前を聞いて初めて。街で、私にまつわる噂の中心にいる方だと伺いました」
淡々とした声だった。怒りも、警戒も、そこにはなかった。ただ、事実を確認するような口調だけがあった。
「単刀直入に伺います。あなたは、俺のことを、これまで一度も」
「知りませんでした。申し訳ないが、本当に、今日この瞬間まで」
アルヴィンは、頷いた。魔眼で既に視ていたことだったが、本人の口から聞くと、また違う重さがあった。胸の奥で、昨夜からくすぶっていた熱が、小さく揺れた。
「では、なぜ、こんなことに」
宰相は、少しの間、目を伏せた。机の上の書類に、無意識に指を置いている。
「分かりません。ただ、私も似たような噂を、これまで幾度となく浴びてきました。国庫の件も、干ばつの件も、私に責任があるという体で語られる。事実を説明しても、なぜか噂の方が広く、長く残る」
「宰相様も、疲れているんですか」
「疲れています。ただ、疲れているという事実を口にしても、状況は変わりませんので、あまり言いません」
アルヴィンは、思わず息を吐いた。目の前の男は、まさに自分が魔眼で視た通りの人間だった。悪意も、余裕も、そのどちらも持たない。ただ、目の前の仕事を、黙々とこなしているだけの官吏。
「俺は、魔眼で、何か"歪み"のようなものを視ました。誰の顔も持たない、何かの意志のようなもの」
宰相は、机の上で指を組んだ。書類の山を、視線で一度だけ追いかけてから、アルヴィンを見た。
「興味深い話です」
「信じるんですか」
「信じる理由は、まだありません。しかし、否定する理由もない。まず、事実を確認すべきでしょう」
その言葉は、これまでアルヴィンが聞いてきた誰の言葉よりも、静かで、そして実務的だった。感情を乗せない。ただ、次に何をすべきかを選んでいる声だった。
「宰相様は、他にも同じような目に遭っている人間に、心当たりは」
宰相は、少し考えてから答えた。
「そういえば、隣領の男爵が、最近ずいぶんと様子がおかしいと聞きました。あとは、勇者殿の伝記が、本人の意向を無視して何度も書き換えられているという話も。それから――」
「侯爵令嬢セラフィナ様、ですか」
宰相は、初めてわずかに目を見開いた。驚いたというより、情報を整理し直しているような間だった。
「よくご存じで」
「魔眼で、視えたので」
宰相は、机の書類を一旦脇へ寄せた。それは、これまで積み上げてきた仕事を一時中断するという、彼にとっては珍しい行為だった。手元のインク壺の蓋を、無意識に閉めてから、アルヴィンを見た。
「では、一度、その方々に会ってみましょう。一人では、視えないものも、集まれば視えてくるかもしれない」
アルヴィンは、拳を緩めた。昨夜から続いていた熱が、少しだけ形を変える。怒りは消えていない。だが、今は、目の前の男にぶつける対象ではなかった。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「宰相様は、周囲から、どう見られていると思いますか」
宰相は、短く息を吐いた。感情というより、事実を述べるような声だった。
「有能すぎると、人は引け目を感じるようです。私はただ、仕事を処理しているだけなのですが。その処理の速さと量に、周囲が圧を感じる。圧を感じた人間は、理由を求める。理由がないと困る。だから、『裏がある』という噂が、まことしやかに流れる」
アルヴィンは、黙って聞いた。
「嫌われているわけではありません。ただ、並ぶと自分の無能が目立つ。それが、不快なのでしょう。不快を消すために、私を『腹黒い男』に仕立てる。そうすれば、自分の遅れは『嵌められた結果』になる。都合がいい」
宰相は、それ以上何も言わなかった。ただ、再び書類の山に視線を戻し、次に処理すべきものを選ぶように指を動かした。
窓の外では、夕暮れが城下町を静かに染め始めていた。アルヴィンは、初めて、自分以外にもこの"歪み"に気づいている人間がいるという事実に、微かな安堵を覚えていた。安堵の奥で、昨夜の怒りが、別の形で静かに熱を保っていた。
「……分かりました。呼びます」
「ええ。できるだけ早く」
宰相は、すでに次の書類を手に取っていた。アルヴィンは、その横顔を一度見てから、執務室を出た。廊下を歩きながら、彼は小さく呟いた。
「ただの、仕事ができる男、か」
誰も、答える者はいなかった。数日後、宰相府の一室には、見知らぬ顔ぶれが集まることになる。




