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アイツ、ナニカ、ヤッタラシイ〜物語が拡散する世界で〜  作者: 藤紫


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第5話 魔眼が見たもの

アルヴィンは、幾晩も自室にこもった。

窓を閉め切り、ランプの火を小さくし、魔眼を通して城下を視続けた。最初に視えたのは、糸だった。人と人の認識を繋ぐ、無数の淡い糸。だが夜を重ねるごとに、その糸の「流れ方」に、ある規則性があることに気づき始めた。


糸は、ただ絡まっているのではなかった。まるで川が低い場所へと流れていくように、人々の認識は、常にある方向へ、緩やかに、しかし確実に引かれていた。


――「面白い」方向へ。


誰かが「男爵は鈍感なのでは」と何気なく口にする。その瞬間、糸がわずかに震え、隣の人間の認識を撫でる。撫でられた認識は、少しだけ形を変え、また次の糸を生む。「そういえば、あの二人、じれったいわよね」と。

事実かどうかは、関係なかった。その解釈が、物語として「面白いかどうか」だけが、糸の流れを決めていた。


「悪役令嬢」の噂も、同じだった。セラフィナが少女に優しくする様子を、誰かが「不気味だ」と感じる。その感情に「物語としての座りの良さ」があると、糸はそちらに流れ、次の人間へと伝播していく。「勇者の無自覚」も、「宰相の陰謀」も、構造は変わらない。誰も、明確な悪意を持って嘘を広めているわけではなかった。ただ、それぞれが無意識のうちに、「その方が面白い」という感覚に従って、少しずつ現実を塗り替えていた。


アルヴィンは、震える手で机を叩いた。一度では足りず、もう一度、さらに強く。インク壺が傾ぎ、黒い染みが帳簿の端に広がるのも構わなかった。


「ふざけるな」


声が裏返った。自分でも驚くほど、低く、掠れていた。喉の奥が熱い。唾を飲み込んでも、熱は消えない。


「俺は、ちゃんとやっていた。取引も、仕入れも、人との約束も。なのに全部、崩れた。崩れた理由を、俺はずっと『誰かのせい』にしていた。宰相が、俺を嵌めたんだと」


彼は椅子を蹴るようにして立ち上がり、部屋の中を歩き回った。足音が、夜の静けさに食い込む。壁に手が当たる。無意識に、壁を叩いていた。拳が、じんじん痛み始めた。


「そしたら、楽だった。憎む相手がいる。『なぜ俺だけが』という問いに、答えがある。でも――」


右目の奥が熱を帯びる。無理に視ようとすればするほど、頭痛が奥から突き上げてきた。それでも、彼は目を逸らさなかった。額に脂汗が浮かび、それを袖で乱暴に拭う。


さらに視ようとした瞬間、異変に気づいた。


糸の流れの中心――そこには、誰の顔もなかった。


人ではない何かが、そこにいるはずだった。だが魔眼を凝らしても、輪郭すら結ばれない。まるで、視ようとするその行為自体が、拒まれているようだった。


ただ一つ、確かなことがあった。

その「中心」は、飢えていた。


新しい物語を、絶え間なく求めていた。男爵の恋が実れば、次はどこかで新しい「ざまぁ」が生まれる。宰相の噂が晴れれば、次はまた別の誰かが、都合よく悪役に仕立てられる。


一つの噂が終わっても、飢えは終わらない。ただ、次の獲物へと、静かに移動するだけだった。


「……お前は、何なんだ」


アルヴィンは、窓ガラスに両手をついた。指先が白くなり、関節が小さく鳴った。力を入れすぎて、爪が内側に食い込む。痛みが走っても、手を離さなかった。


「怪異なのか。それとも――」


その先を、考えることが、なぜか恐ろしかった。

もし後者だとしたら――この飢えは、街の外に存在するのではなく、街に暮らす人々自身の中に、最初からあったものだということになる。


「だったら、俺は何と戦えばいい」


声が、完全に掠れた。怒りと、焦りと、どこかで感じる無力感が混じり合って、胸の奥を締め付けてくる。息が浅い。深く吸おうとしても、肺がうまく膨らまない。


「俺の失敗は、誰の陰謀でもなかった。ただ、みんなが『そうだったら面白い』と思っただけだ。俺が取引に失敗するたびに、誰かが『宰相の仕業だ』と囁いた。俺が婚約を破棄されたときも、誰かが『嵌られたんだ』と同情した。その同情が、次の噂を生んだ。俺は、被害者の役を、勝手に演じさせられていた」


アルヴィンは右目を強く押さえた。熱が、掌に伝わる。指の腹で眼球を押し込むように力を込めた。痛みで視界が白く弾けそうになっても、やめなかった。


「一番許せないのは、そこだ。誰も俺を憎んでいなかった。誰も、俺を落とそうとしていなかった。なのに、俺の人生は、都合のいい物語に使われた。そして俺自身も、その物語を信じて、『黒幕がいる』と思い込んでいた」


彼は、低く呻くように言った。途中で、自分の歯が噛み合わさる音がした。


「ふざけるな。俺の怒りを、向ける場所もないまま、終わらせるな。俺だけじゃない。男爵も、勇者も、あの令嬢も、みんな――自分の人生を、誰かの娯楽にされている」


言葉が、途中で詰まった。アルヴィンは額を窓に預け、しばらくそのまま動かなかった。ガラスの冷たさが、熱を持った右目に染みてくる。額から滴った汗が、窓を伝って落ちた。


「……何とかする」


小さく、しかし明確に、彼は言った。拳を窓枠に押し当てたまま、指の関節を白く浮かび上がらせていた。


「このまま、終わらせるつもりはない。俺の失敗を、ただの『ざまぁ前夜』で終わらせるつもりはない」


夜風が、閉じたはずの窓の隙間から、わずかに吹き込んできた。アルヴィンは目を閉じ、深く息を吸った。吸いきれない。もう一度、無理やり肺を膨らませる。怒りは、まだ胸の中で熱を保ったままだった。消えないまま、次の行動を求めて、静かに燃えていた。


窓の外、月明かりに照らされた城下町は、いつもと変わらず静かだった。だが、アルヴィンにはもう、その静けささえも、次の物語が生まれる前の、束の間の呼吸のように思えてならなかった。


翌朝、アルヴィンは震える足で、宰相府への道を歩き始めていた。

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