第4話 すべてを見抜く魔眼の商人
「宰相が、また誰かを陥れたらしい」
「ああ、あの商人だろう。何をやっても上手くいかないと聞くぞ」
「気の毒に。宰相に目をつけられたら、終わりだ」
市場の片隅で交わされる噂を、アルヴィンはもう数えきれないほど聞いていた。最初のうちは、ただの雑音だった。商売がうまくいかない時期など、誰にでもある。そう自分に言い聞かせていた。だが、失敗は続いた。
大きな取引の話が進んでいた商人が、突然「都合が悪くなった」と姿を消した。畑を借りていた農民が、理由も告げずに契約を破棄してきた。長年付き合っていた取引先の主人は、会うたびに目を合わせなくなり、やがて「もう取引は結構だ」と短く告げた。婚約していた女性の家からは、丁寧な文章で破談の手紙が届いた。理由は「諸事情により」とだけ書かれていた。
アルヴィンは、夜な夜な帳簿を開いた。数字は正直だった。努力が足りなかったわけではない。仕入れの判断を誤ったわけでもない。それでも、結果だけが、静かに、しかし確実に、彼を追い詰めていった。
「宰相様が、そこまでするだろうか……」
最初は、本気でそうは思っていなかった。噂は噂だ。街の人間は、うまくいかない人間を見ると、すぐに誰かの陰謀に結びつけて安心したがる。自分もそう思っていた。
だが、噂は日に日に具体性を増していった。
「国庫が、宰相様の私的な使い込みで急速に減っているらしい」
「先日、宰相様に呼び出された役人が、部屋を出た瞬間に泣いていたとか」
「今年の干ばつも、宰相様が水利権を意図的に操作したせいだと」
誰が言い出したのか、もう分からなかった。ただ、そう語る声が、市場でも、酒場でも、通りでも、同じように聞こえるようになった。アルヴィン自身の耳にも、いつの間にかその言葉が馴染んでしまっていた。
――もしかしたら、本当に。
その疑念が、どん底に沈んだアルヴィンの中で、静かに輪郭を持ち始めた頃だった。右目に、鈍い熱を感じた。
最初は、ただの疲れだと思った。眠れない夜が続いていた。目の奥が重く、時折、視界の端がぼやけることがあった。だが、その熱は徐々に明確な形を取り始めた。右目の奥で、何かがゆっくりと開かれていくような感覚。痛みというより、圧迫。視界の端が、ゆっくりと白く滲んでいく。
魔眼が開いた瞬間、アルヴィンは息を止めた。
同時に、周囲の空気が変わった。
市場の片隅で、誰かが小さく声を上げた。
「今、あの男の目が……」
「光った? 今、確かに光ったわよ」
「魔眼……? まさか、魔眼が?」
ざわめきが、波のように広がっていく。それまでアルヴィンの存在など気にも止めていなかった人々が、一斉に視線を向けてきた。好奇と、期待と、どこか愉しげな光が混じった目。誰かが隣の人間に耳打ちし、それがまた次の人間へと伝わっていく。
「あいつ、ずっと宰相に嵌められてたよな」
「ええ。何をやっても上手くいかなかった」
「それが、今、魔眼に目覚めたってことは……」
「ざまぁの始まり、かしら」
「ようやく、反撃が始まるのね」
誰も、アルヴィンに直接言葉をかけてこない。ただ、少し離れた場所から、興奮した様子でこそこそと話し始めている。アルヴィンの右目に宿った光を、まるで物語の転換点を告げるサインのように受け取っているのが分かった。彼らにとって、これは「虐げられていた男が、ついに力を得て立ち上がる」場面だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
アルヴィンは、そのざわめきを遠くに聞きながら、視界に流れ込んできたものを見つめた。
想像していたような陰謀の証拠ではなかった。
大量の書類。予算案。灌漑工事の報告書。隣国との条約案。深夜まで続く会議の記録。机の上に積み上げられた紙の山は、まるで生き物のように彼の視界を埋め尽くした。インクの匂い、紙の擦れる音、時計の針が規則正しく進む音。そして、宰相の心の声が、微かに聞こえた。
――今日中に、この書類、全部片付くだろうか。
――そういえば、朝から何も食べていない。
――あの担当官、また泣いていたな。予算が足りなかったこと、ちゃんと説明できただろうか。
アルヴィンは、魔眼を閉じることも忘れて、その光景を見つめ続けた。そこには、悪意も陰謀も、何ひとつなかった。ただ、疲弊しきった一人の男が、黙々と仕事をこなしているだけだった。肩はわずかに落ち、指先にはインクの染みがこびりついている。窓の外はすでに暗く、部屋のランプだけが彼を照らしていた。
さらに深く視る。宰相の記憶を遡る。アルヴィンという名前も、顔も、存在そのものすら、宰相の記憶のどこにも見当たらなかった。彼の失敗も、破談も、取引の崩壊も、この男の人生には一切関わっていなかった。
「……知らない」
アルヴィンは、呆然と呟いた。声が、自分の耳に遠く聞こえた。
「本当に、俺のことなんて、最初から」
背後では、まだざわめきが続いていた。
「見て、今、何かを視てる……」
「宰相の悪事を、暴こうとしてるんだわ」
「もうすぐだ。もうすぐ、全部が明らかになる」
誰かが、期待に声を弾ませている。アルヴィンは、ゆっくりと右目を押さえた。熱は、もうほとんど残っていなかった。代わりに残ったのは、自分を追い詰めていた「黒幕」がそもそも存在しなかったという事実と、それでもなお、周囲が自分を「反撃を始めた男」として消費し始めているという、静かな違和だけだった。
その夜、アルヴィンは自室で、静かに魔眼を通して別のものを視ようとした。
――なぜ、あんな噂が生まれたのか。
視界に映ったのは、人々の顔ではなかった。無数の、糸のようなものだった。それぞれの人間の認識から伸びる、細く淡い糸が、ある一点――誰のものでもない、しかし確かに「そこにある」何かに向かって、緩やかに引き寄せられていた。
誰かが「宰相が怪しい」と呟けば、その糸は震え、隣の人間の認識をわずかに歪める。歪んだ認識は、また新しい糸を生み、次の人間へと伸びていく。それは、悪意でも、命令でもなかった。ただ、そうなることを、誰もが少しずつ望んでいるだけだった。
アルヴィンは、寒気を感じた。部屋の空気が、急に冷たくなったように思えた。
「これは……誰かが、みんなに、物語を見せている」
だが、その「誰か」の姿は、どれだけ目を凝らしても視えなかった。あるのはただ、無数の糸が織りなす、名もない歪みだけだった。
窓の外、城下の明かりのひとつひとつが、まるで呼吸するように、静かに揺れていた。アルヴィンは右目を押さえた。熱は、もうほとんど残っていなかった。代わりに残ったのは、自分の失敗が「誰かの陰謀」ではなかったという事実と、それでもなお、誰かが自分を「宰相に陥れられた男」として語り続けているという、静かな違和だけだった。
彼は、しばらくのあいだ、窓の外を見つめたまま動かなかった。
やがて、糸の中に、聞き覚えのある単語がいくつか混じり始めていることに気づいた。「男爵」「勇者」「令嬢」――自分と同じ苦しみを抱えているらしい、見知らぬ誰かたちの名。




