第3話 悪役令嬢は悪役ではない
「侯爵令嬢セラフィナ様、また平民の娘をいじめていたそうよ」
「まあ、恐ろしい。あんなにおとなしそうな顔をして」
「きっと将来、婚約者様に断罪される日が来るのね」
夜会の片隅で交わされる囁きは、甘い香水の匂いと混じって、どこまでも軽やかだった。誰も声を荒げない。ただ、扇の影で唇を動かし、目を細め、楽しそうに頷き合うだけだった。セラフィナは、その声を背中で聞きながら、何も言い返さなかった。言い返しても無駄だということを、もう十分に知っていた。
屋敷に戻ると、午後の光が静かに部屋を満たしていた。窓辺で、平民出身の少女ミアが刺繍枠を膝に乗せ、真剣な顔で針を動かしている。
「セラフィナ様、今日もありがとうございます。刺繍の続き、教えていただけますか」
「ええ。でも、その持ち方だと指を刺すわ。こう」
セラフィナはミアの手にそっと自分の手を重ね、針の角度を直してやった。ミアの指はまだ少し不器用で、布を引っ張る力が強すぎる。セラフィナはそれを優しく押さえ、もう一度見本を見せた。ミアははにかむように笑い、小さく息を吐いた。
「セラフィナ様といると、安心します。最初は怖い方だと思ってたんですけど」
「そう。それは光栄ね」
窓の外を、庭師がちらりと覗いていた。目が合った瞬間、男は慌てたように視線を逸らし、剪定鋏を手に持ったまま去っていった。
翌日から、城下には新しい噂が流れた。「侯爵令嬢、平民の娘に無理やり作法を叩き込んでいるらしい」
「手を握って脅していたとか」
「あの子、泣きながら従っているのを見た者がいるって」
セラフィナは、その噂を耳にしても、もう驚かなくなっていた。ただ、胸の奥が、静かに沈むだけだった。
数日後、侍女のひとりがおずおずと口を開いた。
「セラフィナ様。少し、お伺いしたいことが」
「何かしら」
「先日、ミア様が転んだ際、セラフィナ様がすぐに駆け寄って手当てをされていましたよね。あれは……」
「当然でしょう。目の前で人が転んだのだから」
「はい。ですが、城下では『わざと突き飛ばした後、慌てて取り繕った』と」
セラフィナは、手にしていた扇を静かに閉じた。扇の骨が、指の腹に小さく当たる感触があった。
「……見ていた者は、いなかったはずだけれど」
「ですが、噂は既にそのように」
「誰も見ていないのに、なぜ突き飛ばしたことになっているの」
侍女は、答えられなかった。誰も、答えられなかった。ただ、部屋の空気が少し重くなっただけだった。
その夜、セラフィナは自室の鏡の前に座った。長い沈黙のあと、静かに呟いた。
「私が優しくすれば、裏があると言われる。厳しくすれば、いじめだと言われる。何もしなければ、企みを隠していると言われる」
鏡に映る自分の顔を見つめる。整った眉、静かな目。夜会で「おとなしそう」と囁かれた、その顔。
「……私は、一体、何をすればいいの」
答える者は、誰もいなかった。窓の外では、風が枝を揺らす音だけが聞こえていた。城下のどこかで、今夜もまた、彼女の知らないところで新しい断罪の噂が、静かに形を整え始めているのだろう。
セラフィナは、鏡から視線を外し、机の上に置かれた刺繍枠に目を落とした。ミアが昼間に縫いかけた花の模様が、まだ途中で止まっている。針が、布の上に斜めに刺さったままだった。
彼女はそれを手に取り、静かに続きを縫い始めた。糸を通す音だけが、部屋に小さく響いていた。
その針の先が布を通り抜けるのと同じ頃、遠い市場の片隅で、一人の商人の右目が、初めて鈍い熱を帯び始めていた。




