第2話 無自覚ではない勇者
「勇者様、聞きましたわよ。あの魔王軍幹部を、たった一撃で」
「本当にすごいですわ。ご本人はきっと、まだ自分の力の大きさに気づいていらっしゃらないのでしょうね」
宮廷の廊下は、今日も甘い声で満ちていた。貴族たちが口々に囁くたびに、ガレスは歯を食いしばった。肩にかけた外套の裾が、わずかに揺れる。
「あの……気づいてます。というか、毎朝五キロ走って、素振り千回して、魔力操作も三年続けてるので、強くなった理由、普通に分かってます」
「まあ、そのように謙遜なさって」
「謙遜じゃないんです。事実を言ってるだけで」
「ふふ、それもまた勇者様らしい奥ゆかしさですわ」
会話が、まったく噛み合わない。ガレスは以前ほど声を荒げることはしなくなっていた。ただ、口の端が少しずつ強張っていくのが自分でも分かった。廊下の窓から差し込む午後の光が、床に細長い影を落としている。その影の中で、自分の足音だけが妙に大きく聞こえた。
少し離れた柱の陰で、侍女と若い騎士がこそこそ話しているのが聞こえてきた。
「勇者様ったら、さっきも『えっ、俺なんかやっちゃいました?』っておっしゃって……」
「まあ、さすがですこと。あの一撃で幹部を倒しておきながら、まだご自分の実力を把握しきれていないなんて」
「…っ、そんなこと言ったこねぇよ」
ガレスが振り返ると、二人は慌てて口を閉ざし、お辞儀をして去っていった。足音が遠ざかる中、ガレスは天井を仰いだ。言ってもいない台詞が、もう「事実」として流通している。しかも、自分の否定すら「謙遜の証拠」として消費される。
その夜、鍛錬場でひとり剣を振っていたガレスのもとに、従者のロイドがやってきた。松明の火が、夜気の中で小さく揺れている。剣を振るたびに、冷たい空気が頬を撫でた。
「勇者様、まだ稽古を?」
「ああ。明日も、多分同じことの繰り返しだから」
ロイドは、少し言いにくそうに口を開いた。手には、今日の伝記の下書きらしい紙切れが握られている。
「あの、先ほど、王宮の記録係が新しい伝記を書いていました。タイトルが『無自覚なる勇者、その孤高の道』」
「……また、それか」
「はい。今回も、勇者様が『自分は無自覚ではない』と主張された箇所は、全て『謙虚さゆえの否定』と注釈が入っていました。あと、先ほど廊下で誰かが『勇者様が「えっ、俺なんかやっちゃいました?」とおっしゃった』と話していたのですが、それも『本人の無自覚を示す貴重な証言』として採用されたようです」
ガレスは、剣を鞘に収めた。荒れた息が、夜の鍛錬場に白く漂う。剣の柄を握っていた手が、少しだけ熱を持っていた。
「もう、何を言っても無駄なのかもな」
「そんなことは」
「いや、いいんだ。分かってる。俺がどれだけ『努力した』って叫んでも、あいつらには『無自覚な天才』にしか見えない。多分、俺が明日、公衆の面前で稽古のスケジュール表を全部見せたって、『そこまで記録に残すほど、無自覚に頑張っていらっしゃる』とか言われるんだろうな」
ロイドは、何も言えなかった。紙切れの端を、指で小さく折り曲げている。ガレスの声には、以前のような怒りよりも、静かな諦めの方が濃く滲んでいた。
「……ただ、疲れてきた。それだけだ」
鍛錬場の松明の灯りが、ガレスの横顔を薄く照らしていた。遠くの城下からは、今夜もまた、彼の「無自覚な強さ」を讃える詩人の声が、風に乗って微かに聞こえていた。詩の内容は、だいたいこうだった。
『勇者は問う。我は何者か、と。されどその問いこそが、真の強さの証』
ガレスは、ゆっくりと目を閉じた。詩の声が遠ざかるのを待ちながら、明日もまた同じことを言わされるのだろう、とぼんやり思った。言ってもいない台詞を、誰かがまた作ってくれるのだろう。
「……『えっ、俺なんかやっちゃいました?』、か」
小さく繰り返して、苦笑した。自分の声が、夜の空気に溶けていく。誰も聞いていない。誰も、本当の意味では聞いていないのだった。
その頃、王都から遠く離れた地方都市では、ある侯爵令嬢が、身に覚えのない噂に晒され始めていた。「平民の娘をいじめている」という言葉が、まだ誰も真偽を確かめないまま、静かに広まりつつあった。




