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第3話 それでも、まだ人間だ



 血の匂いをたどり、俺は暗い通路を進んだ。


 人間だった頃なら、血の匂いなど嗅ぎ分けられなかった。


 いまは違う。


 鼻を刺す濃い匂いが、どこから流れてきているのか分かる。


 先ほど倒した巨大ネズミの《嗅覚強化》は選ばなかった。


 それでも、ゴブリンの身体は人間より鼻が利くらしい。


 通路の先から、金属同士がぶつかる音が聞こえた。


「くそっ……来るな!」


 人間の声だ。


 俺は足音を殺し、岩陰から奥をのぞいた。


 少し広くなった空間で、一人の男が壁を背にしていた。


 革の防具を身につけ、右手には片手剣を握っている。


 探索者だろう。


 だが、左脚から大量の血を流していた。


 立っているのが不思議なくらいの傷だ。


 その男を、二匹のゴブリンが取り囲んでいた。


 一匹は棍棒。


 もう一匹は石斧を持っている。


「ギャギャ!」


「ギヒッ!」


 二匹の言葉が理解できた。


『もう弱っている』


『殺したら肉を分ける』


 男は二匹の言葉を理解できていない。


 剣を構えながら、荒い呼吸を繰り返していた。


「来るなら来い……!」


 強がっているが、剣先は震えている。


 助からない。


 このままでは、あの男はゴブリンに殺される。


 助けなければ。


 そう思った直後、別の考えが頭に浮かんだ。


 死ぬまで待てばいい。


 新鮮な人間の死骸からなら、ゴブリンより強いスキルを奪えるかもしれない。


 俺が殺すわけではない。


 二匹のゴブリンが男を殺し、そのあとで死骸へ触れるだけだ。


「……何を考えてるんだ、俺は」


 口から漏れたのは、ゴブリンの鳴き声だった。


 それでも、自分が何を考えたのかは分かっている。


 人間が殺されるのを待つ。


 その死骸から、能力を奪う。


 ゴブリンの身体に残る記憶は、それを悪いことだと思っていなかった。


 弱い者が死ぬ。


 生き残った者が奪う。


 それが当たり前なのだ。


 男とは知り合いではない。


 助けたところで、ゴブリンの俺を仲間だとは思わないだろう。


 むしろ剣を向けられる可能性が高い。


 命を懸けて助ける理由など、どこにもない。


「ギャッ!」


 棍棒を持ったゴブリンが男へ飛びかかった。


 男が剣を振る。


 刃はゴブリンの肩を浅く切っただけだった。


 直後、石斧が男の脇腹へ叩き込まれる。


「ぐっ……!」


 男が膝をついた。


 二匹のゴブリンが笑う。


 俺の身体の奥にも、獲物を仕留めるときの高揚感が湧き上がった。


 同族が人間を倒す。


 食料が手に入る。


 それを喜ぶ、ゴブリンの本能だ。


「ふざけるな……」


 俺は短剣を握った。


 ここで見捨てたら、俺はもう人間には戻れない。


 姿の話ではない。


 心の話だ。


 俺は足元の石を拾い、棍棒を持つゴブリンへ投げつけた。


「ギャッ!」


 石が後頭部に当たる。


 二匹のゴブリンが同時に振り返った。


『何をする!』


『そいつは俺たちの獲物だ!』


「知るか!」


 人間の言葉は通じなかった。


 代わりに、俺の口から別の鳴き声が飛び出す。


『そいつから離れろ!』


 ゴブリンの言葉だった。


 考えるより先に、自然と口から出ていた。


 二匹が目を見開く。


『なぜ人間を助ける?』


『お前も肉が欲しいのか?』


『肉はいらない』


『なら、邪魔をするな!』


 棍棒を持ったゴブリンが、俺へ走ってきた。


 やはり話し合いはできない。


 俺は短剣を構えた。


 相手もゴブリン。


 身体の大きさは、ほとんど変わらない。


 だが、こちらには巨大ネズミから奪った《敏捷》がある。


 振り下ろされた棍棒を、横へ跳んで避ける。


 俺がいた場所へ棍棒が叩きつけられた。


 遅い。


 巨大ネズミの攻撃に比べれば、動きがはっきり見える。


 俺は相手の横へ回り込み、短剣を突き出した。


 刃が脇腹へ入る。


『痛い!』


 ゴブリンが叫びながら棍棒を振り回した。


 後ろへ下がって避ける。


 追いかけてきたところへ、もう一度短剣を突き刺す。


 今度は胸だった。


『死にたくない!』


 その言葉に、手が止まりかけた。


 相手にも恐怖がある。


 死にたくないという感情がある。


 だが、先に襲ってきたのはこいつだ。


 俺だけでなく、壁際の男まで殺そうとしていた。


 迷えば、こちらが殺される。


「俺だって、死にたくない」


 短剣を深く押し込んだ。


 ゴブリンの身体から力が抜ける。


 棍棒が地面へ落ち、そのまま俺の肩へ倒れ込んできた。


 死んだ。


 俺が殺した。


 しかし、巨大ネズミを殺したときと同じように、強い罪悪感は湧かなかった。


 あるのは、生き残ったという安堵だけだ。


『よくも!』


 石斧を持ったゴブリンがこちらへ向かってくる。


 俺が短剣を抜こうとしたが、死骸の骨に引っかかって動かない。


 間に合わない。


 石斧が振り上げられる。


 そのとき、銀色の刃がゴブリンの背中から突き出した。


『え……?』


 ゴブリンが振り返る。


 壁際にいた男が、最後の力を振り絞って剣を突き刺していた。


「何を話しているのか知らないが……仲間割れなら、助かった」


 男が剣を引き抜く。


 石斧のゴブリンは一歩だけ前へ進み、その場に倒れた。


 直後、男も力尽きて膝をついた。


「お前……」


 男が俺を見る。


 剣を握ったままだ。


 警戒している。


 当然だ。


 人間から見れば、俺もほかの二匹と同じゴブリンでしかない。


「ギ……」


 助けるつもりだった。


 そう伝えたくても、人間の言葉にならない。


 男が剣を持ち上げる。


 俺は短剣を構えなかった。


 ここで戦えば、どちらかが死ぬ。


 倒れたゴブリンから短剣を抜き、ゆっくりと地面へ置いた。


 両手を上げ、一歩後ろへ下がる。


「俺を……襲わないのか?」


 俺はうなずいた。


 男の表情が変わった。


「言葉が分かるのか?」


 もう一度、うなずく。


「そんなゴブリンが……」


 男は最後まで言えなかった。


 剣を落とし、その場へ倒れる。


 俺は慌てて駆け寄った。


 呼吸はある。


 だが、脇腹と左脚から血が流れ続けている。


 このままでは死ぬ。


 男の腰に、小さな革袋があった。


 中を調べると、赤い液体の入った小瓶が一本出てきた。


 ゴブリンの記憶にはない品だ。


 だが、人間だった俺の知識が、それが何なのかを教えてくれる。


「回復薬か?」


 瓶の蓋を開け、男の口元へ運んだ。


 少しずつ流し込む。


 男は意識を失ったまま、かすかに喉を動かした。


 傷口から流れていた血が止まり始める。


 効いている。


「よかった……」


 安堵した自分に、少しだけ安心した。


 俺はまだ、人間を助けられる。


 完全にゴブリンになったわけではない。


 背後には、二匹のゴブリンの死骸がある。


 どちらも死んだばかりだ。


 触れれば、能力を奪える。


 俺は棍棒を持っていたゴブリンの死骸へ近づいた。


《新鮮な死骸を確認しました》


《満腹状態です》


《現在、《死骸収奪》は使用できません》


「そうだった……」


 巨大ネズミから《敏捷》を奪い、満腹になっている。


 目の前に新鮮な死骸が二つあっても、いまは何も奪えない。


 そのとき、通路の奥から人間の声が聞こえた。


「おーい!」


「返事をしろ!」


 倒れている男の仲間だろう。


 助かった。


 そう思った直後、ゴブリンの記憶が警告する。


 人間に見つかる。


 殺される。


 俺は倒れた男を見た。


 意識は戻っていない。


 ここに残っても、俺が彼を助けたと証明してくれる者はいない。


 短剣を拾い、通路の暗闇へ走る。


 その途中、わずかな空腹を感じた。


 戦闘で身体を動かしたため、満腹度が少し下がったらしい。


《満腹状態が解除されました》


 足を止める。


 振り返れば、二匹の新鮮な死骸がある。


 人間たちの声は、すぐ近くまで迫っていた。


 一体だけなら、間に合う。


 俺は棍棒を持っていたゴブリンの死骸へ駆け戻り、手を触れた。


《対象が所有していた能力を一つ選択してください》


《夜目》


《悪臭耐性》


《棍棒術》


《短剣術》


《能力値》


 迷っている時間はない。


「《短剣術》を選ぶ」


《スキル《短剣術》を収奪します》


 死骸から黒い光が浮かび、俺の腕へ吸い込まれた。


 短剣の握り方。


 相手との距離。


 刃を突き出す角度。


 知らなかった技術が、最初から知っていたことのように頭へ流れ込んでくる。


《満腹状態になりました》


「いたぞ!」


 人間の声が響いた。


 通路の奥に、明かりが見える。


 俺は短剣を握り直し、反対側の暗闇へ走り出した。


 人間を助けた直後に、死骸から能力を奪った。


 どちらが本当の俺なのか、自分でも分からない。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 生き残るためなら、俺はもう、死骸を利用することをためらわなくなっていた。


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