表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハルモニアの外側  作者: 藤川加加阿
5 飽和
11/15

5-1 飽和 これ以上、何もいらないと思った

 初めに感じたのは、匂いだった。


 湿った土の、密生した葉の青さの、腐りかける直前の鼻を刺す、どろりとした甘さの、それらが区別を失い、ひとつの塊となって、深く入り込んでくる。

 鼻腔だけでは足りず、肺の奥まで満ちて、浸していく。


 僕は一歩、足を止めた。

 それでもう、十分だった。


 遅れて、ぬるい、じっとりとした空気が肌にまとわりつく。

 呼吸をするたびに、身体の内側まで湿っていくように重い。


 青鸞(せいらん)が壁際のパネルに触れる。

 橙色の非常灯がひとつ、またひとつと点った。


 壁と天井を覆い尽くし、神経叢のように絡み合う巨大な蔓植物が浮かび上がる。支柱も区画も無視して伸びた枝葉が、設備そのものを飲み込んでいる。

 根は床を押し上げ、空間そのものを占拠していた。

 どこかで機械が低く唸うなり、床を伝ってわずかな振動が足裏に伝わる。

 水の流れる音が、頭上と足元の両方で聞こえた。どこかの配管が破損し、霧状の水が断続的に噴き出す。

 環境維持装置が、今も稼働し続けているのが分かる。


 かつて植えられていたはずの植物は、もう、どれが人の手によるものなのかを判別することはできなかった。

 足の下で何かが蠢く気配がした。枝の間を、小さな影が走り抜けていく。本来、一定の環境を保つために閉じられた空間であるはずだ。しかし、その密閉はとうに破られていた。


「驚いただろ。ずいぶん前に放棄されて、このままだったみたいだ。確認してみたけど、管理リストからも外れてた」


 青鸞の声は、聞こえていたが聞こえなかった。


 僕は一本の木の前に立っていた。

 ひときわ強い芳香を放つそれは、歪な形の果実をいくつも枝に下げている。

 重みで垂れ下がった実の、橙色の皮膚がはち切れんばかりに張りつめていた。


 手を伸ばす。

 指先に伝わる重みは、思った以上にしっかりしていた。

 少し力加減を誤ると弾けてしまいそうで、僕は無意識に息を詰めていた。


 唇に当たる。

 歯を立てた瞬間、張りつめたものが裂ける音がした。

 裂けたところから、吹き出し、滴り落ちる。

 舌の上に、ねっとりとした甘みが広がった。

 味が一気に流れ込み、思考が遅れる。


 遅れて、満たされていく感覚だけがあった。

 果汁が手首を伝い、土へと落ちていく。

 繊維のざらつきも、僅かな渋みも、抵抗として立ち上がる前にすべて飲み込まれていった。




「……あ」

 僕は、ようやく、自分のしていることに気がついた。

 僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。


 青鸞を探す。


 シティで生まれ育った彼の目には、植物を「食べる」という行為は、忌むべき野蛮で不潔なものに映るのではないか。


 汗ばんでいたはずの身体が、芯ごと熱を失っていく。


 視線が合う。


 青鸞は少し後ろで、ずっと僕を見ていたようだった。

 彼の表情からは、何も読み取れない。

 ゆっくりと近づいてきて、隣に立つ。


 急に、音が消えたように感じた。


 僕はただ硬直し、彼の口から断罪の言葉が落ちてくるのを待つしかなかった。


 青鸞は何も言わない。


 右手を伸ばし、果実を枝から外した。

 迷いなく口に運ぶ。


 その仕草は驚くほど自然で、そして、静かだった。


 溢れ出た果汁が彼の指先を濡らす。

 表情も変えずに、ゆっくりと咀嚼する姿は、味わっているのではなく、見知ったものを口にしただけというようだった。


 飲み込んでから、息をつき、僕を見る。


「……大丈夫。僕にも、これが食べ物に見えているよ」

 低く、穏やかな声だった。

 許しでも、慰めでもなかった。


 「どうして」だとか、「どこで」だとか、浮かぶ言葉はたくさんあったが、うまく文章にならない。

 「これは食べ物だ」と、僕の身体は迷いなく判断した。僕の知る果実とは、色かたちも匂いもまるで違うのに、この実を嗅いだ瞬間に、判った。


 青鸞も同じだというのだろうか。


 ――食べ物に見えている。

 その言葉が、頭の中で何度も反響する。


「……君も、食べるの?」

 ようやく絞り出せた言葉は、宙に消えそうなほど掠れていた。


「不服かい。僕だって、これの味くらい知っているさ」

 青鸞はニヤリと笑い、満足げに目を細めた。僕の反応は、彼を満足させるものだったらしい。


 僕は、彼のことをほとんど知らない。

 けれど、シティの流儀とは違うこの「野蛮な食事」を共有できたことが、たまらなく嬉しかった。

 廃棄された温室の中で、僕たちは、世界から取り残されたように、ただ夢中で甘い果実を頬張った。


 

 水場を探していると、入ってきた扉とは別の扉があることに気がついた。扉の隙間には、新しく擦れたような痕跡がある。最近、誰かが立ち入ったのだろうか。青鸞もそれに気づいたようだったが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。


「僕たちと同じように、退屈を持て余した生徒が迷い込んだんだろう。他の連中にとっては、ここはただの荒れ果てた温室だ。戻ってくることもないだろう」


 一応扉の向こうをのぞいてみたが、人の気配はなかった。埃をかぶった実験器具のようなものが並び、紙類が雑然と積み重ねられている。かつては研究室だったのだろう。

 床の埃には、比較的新しい、一人分の足跡が残っていた。先客がいたのは間違いない。


 研究室の隅に手洗い場を見つけた。蛇口を捻ると、すぐに水が出てくる。両手ですくい、顔に近づけて確かめてみたが、匂いもなく、飲めそうだった。

 僕はその水で、温室での痕跡を流し落とした。


 帰り道、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。

 来た時と同じようにボートを漕いで戻る。帰りは僕がオールを握った。自動制御ボートの明かりは、もうどこにもなかった。


 青鸞とは寮の裏口で短い言葉だけで別れ、僕は自分の部屋へと続く静かな廊下を急いだ。


 部屋に入る。

 琥珀(こはく)はまだ、戻っていなかった。


 張り詰めていた緊張の糸が切れる。

 僕は、外部端末(デヴァイス)に指を滑らせて、ダミィコードを終了させた。忘れていた疲労感が一気にのしかかってきたが、不思議と不快ではなかった。

 温室で感じた、あの熱っぽい高揚感が、急速に引いていく代わりに、泥のような眠気が襲ってきた。僕は着替えもそこそこに、吸い寄せられるように自分のベッドに潜り込む。


 兄の不在について考える余裕もなかった。

 何の匂いもしない部屋が、ひどく奇妙に思えた。

 僕の身体だけが、まだ温室に取り残されているみたいだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ