5-1 飽和 これ以上、何もいらないと思った
初めに感じたのは、匂いだった。
湿った土の、密生した葉の青さの、腐りかける直前の鼻を刺す、どろりとした甘さの、それらが区別を失い、ひとつの塊となって、深く入り込んでくる。
鼻腔だけでは足りず、肺の奥まで満ちて、浸していく。
僕は一歩、足を止めた。
それでもう、十分だった。
遅れて、ぬるい、じっとりとした空気が肌にまとわりつく。
呼吸をするたびに、身体の内側まで湿っていくように重い。
青鸞が壁際のパネルに触れる。
橙色の非常灯がひとつ、またひとつと点った。
壁と天井を覆い尽くし、神経叢のように絡み合う巨大な蔓植物が浮かび上がる。支柱も区画も無視して伸びた枝葉が、設備そのものを飲み込んでいる。
根は床を押し上げ、空間そのものを占拠していた。
どこかで機械が低く唸うなり、床を伝ってわずかな振動が足裏に伝わる。
水の流れる音が、頭上と足元の両方で聞こえた。どこかの配管が破損し、霧状の水が断続的に噴き出す。
環境維持装置が、今も稼働し続けているのが分かる。
かつて植えられていたはずの植物は、もう、どれが人の手によるものなのかを判別することはできなかった。
足の下で何かが蠢く気配がした。枝の間を、小さな影が走り抜けていく。本来、一定の環境を保つために閉じられた空間であるはずだ。しかし、その密閉はとうに破られていた。
「驚いただろ。ずいぶん前に放棄されて、このままだったみたいだ。確認してみたけど、管理リストからも外れてた」
青鸞の声は、聞こえていたが聞こえなかった。
僕は一本の木の前に立っていた。
ひときわ強い芳香を放つそれは、歪な形の果実をいくつも枝に下げている。
重みで垂れ下がった実の、橙色の皮膚がはち切れんばかりに張りつめていた。
手を伸ばす。
指先に伝わる重みは、思った以上にしっかりしていた。
少し力加減を誤ると弾けてしまいそうで、僕は無意識に息を詰めていた。
唇に当たる。
歯を立てた瞬間、張りつめたものが裂ける音がした。
裂けたところから、吹き出し、滴り落ちる。
舌の上に、ねっとりとした甘みが広がった。
味が一気に流れ込み、思考が遅れる。
遅れて、満たされていく感覚だけがあった。
果汁が手首を伝い、土へと落ちていく。
繊維のざらつきも、僅かな渋みも、抵抗として立ち上がる前にすべて飲み込まれていった。
「……あ」
僕は、ようやく、自分のしていることに気がついた。
僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。
青鸞を探す。
シティで生まれ育った彼の目には、植物を「食べる」という行為は、忌むべき野蛮で不潔なものに映るのではないか。
汗ばんでいたはずの身体が、芯ごと熱を失っていく。
視線が合う。
青鸞は少し後ろで、ずっと僕を見ていたようだった。
彼の表情からは、何も読み取れない。
ゆっくりと近づいてきて、隣に立つ。
急に、音が消えたように感じた。
僕はただ硬直し、彼の口から断罪の言葉が落ちてくるのを待つしかなかった。
青鸞は何も言わない。
右手を伸ばし、果実を枝から外した。
迷いなく口に運ぶ。
その仕草は驚くほど自然で、そして、静かだった。
溢れ出た果汁が彼の指先を濡らす。
表情も変えずに、ゆっくりと咀嚼する姿は、味わっているのではなく、見知ったものを口にしただけというようだった。
飲み込んでから、息をつき、僕を見る。
「……大丈夫。僕にも、これが食べ物に見えているよ」
低く、穏やかな声だった。
許しでも、慰めでもなかった。
「どうして」だとか、「どこで」だとか、浮かぶ言葉はたくさんあったが、うまく文章にならない。
「これは食べ物だ」と、僕の身体は迷いなく判断した。僕の知る果実とは、色かたちも匂いもまるで違うのに、この実を嗅いだ瞬間に、判った。
青鸞も同じだというのだろうか。
――食べ物に見えている。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……君も、食べるの?」
ようやく絞り出せた言葉は、宙に消えそうなほど掠れていた。
「不服かい。僕だって、これの味くらい知っているさ」
青鸞はニヤリと笑い、満足げに目を細めた。僕の反応は、彼を満足させるものだったらしい。
僕は、彼のことをほとんど知らない。
けれど、シティの流儀とは違うこの「野蛮な食事」を共有できたことが、たまらなく嬉しかった。
廃棄された温室の中で、僕たちは、世界から取り残されたように、ただ夢中で甘い果実を頬張った。
水場を探していると、入ってきた扉とは別の扉があることに気がついた。扉の隙間には、新しく擦れたような痕跡がある。最近、誰かが立ち入ったのだろうか。青鸞もそれに気づいたようだったが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。
「僕たちと同じように、退屈を持て余した生徒が迷い込んだんだろう。他の連中にとっては、ここはただの荒れ果てた温室だ。戻ってくることもないだろう」
一応扉の向こうをのぞいてみたが、人の気配はなかった。埃をかぶった実験器具のようなものが並び、紙類が雑然と積み重ねられている。かつては研究室だったのだろう。
床の埃には、比較的新しい、一人分の足跡が残っていた。先客がいたのは間違いない。
研究室の隅に手洗い場を見つけた。蛇口を捻ると、すぐに水が出てくる。両手ですくい、顔に近づけて確かめてみたが、匂いもなく、飲めそうだった。
僕はその水で、温室での痕跡を流し落とした。
帰り道、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。
来た時と同じようにボートを漕いで戻る。帰りは僕がオールを握った。自動制御ボートの明かりは、もうどこにもなかった。
青鸞とは寮の裏口で短い言葉だけで別れ、僕は自分の部屋へと続く静かな廊下を急いだ。
部屋に入る。
琥珀はまだ、戻っていなかった。
張り詰めていた緊張の糸が切れる。
僕は、外部端末に指を滑らせて、ダミィコードを終了させた。忘れていた疲労感が一気にのしかかってきたが、不思議と不快ではなかった。
温室で感じた、あの熱っぽい高揚感が、急速に引いていく代わりに、泥のような眠気が襲ってきた。僕は着替えもそこそこに、吸い寄せられるように自分のベッドに潜り込む。
兄の不在について考える余裕もなかった。
何の匂いもしない部屋が、ひどく奇妙に思えた。
僕の身体だけが、まだ温室に取り残されているみたいだった。




