69.白煙
「おじさん、まだ僕はこれを使えない。何にも進まないからさ、ほんとに僕が使う資格があるのかって気持ちになるよ」
総司少年は夕食で祐介と向かい合って会話をしていた。
彼の大好きだった白身魚のムニエルも手が付けられず冷めてしまっている始末だ。
「総司、気に病むな。そうだ、実はな先日ある事があって親切なご夫婦と知り合いになったんだよ。明日はその時のお礼も兼ねてそこに行くつもりなんだけど、君も来るかい?」
「え?知らない人だろ?僕は苦手なんだよ。知らない人が」
「そこの御婆さんがね、その時にとても美味しいりんごのパイを焼いてくれたんだよ。あれは美味かったな」
「え?明日も焼いてくれるかな」
「ほんとに総司は現金だな。行ってみるかい」
祐介は家族というものを知らないこの少年に祖父母の存在を教えたかった。そうした家族の繋がりみたいなものを感じる事が、この少年にいま必要な事だと感じていたからだ。
〜
次の日 〜
「こんなに遠いところなの?来なきゃよかったよ」
「そう言うな総司。あの林の向こうだ」
祐介は洋館の大きな門柱のパネルを触った。
「どちら様?」
パネルから芳恵の声がした。
「中村佑介です。先日のお礼に伺いました」
芳恵が庭仕事を中断して門扉を開けた。
「まあ、中村さん。こんな事しなくていいのよ。でも、上がって頂戴。主人もいますわ。あらこちらの賢そうな坊っちゃんは話していたあの子ね。さあさ、上がって上がって」
居間に上がった二人は大きな椅子に座ってここの主人を待っていた。
「中村さんか?どうしたんだね。何かあったのか」
「いえ、先日の御礼にと」
と言って立ち上がって礼をした。
「そんな事しなくていい。わしはあの日現役に戻ったようで、昔の感覚を感じられ嬉しかった。礼を言うのはこちらの方だよ」
祐介はまたそれに礼を言って、互いが頭を下げ続ける展開となっていた。
芳恵が釘を刺すまでそれは続けられた。
「た、太賀、総司です。よろしくおねがいします」
正彦はその名前を先日聞いたばかりだった。その名前の先祖がこの家の持ち主だった。そして自分の祖父と何らかの繋がりがあった。
「一ヶ月前まではこの名前じゃなかったので、まだ慣れないんです。ごめんなさい」
「そうか、総司くんと言うのか。わたしは正木正彦という。何故か代々だが苗字と名前に『正』と言う字が付いている。甥っ子も正人という。どうだ安直だろ?名前なんてそんなもんだ、気にしなくていい」
「あ、ありがとうございます」
総司はこの眼光が鋭い老人に対して少し緊張していたが、今ので気持ちが楽になったようだった。
「中村さん、今日は礼というよりこの子を私達に会わせたかったのだろう?」
「あはは、申し訳ありません。直ぐにばれてしまいましたね。流石、元刑事さんだ」
「このお爺さん、警察官なの?」
正彦はいつもの顔で言う「怖がらなくていい。元だ。もう随分前に引退した」
総司はまた緊張の糸が張り詰めてしまい、大きな汗をかいていた。
「さて、家の中を見てみるかね。太賀の子孫くん」
正彦は少年を案内して家の中を案内してまわった。
かつて公臣の使ったであろう書斎や寝室、キッチンにダイニング、ゲストルームや大広間、たくさんの和室に庭に庵まであった。
祐介もついて回ったが先日感じた違和感がまだ残っていて、家の中を歩く度にそれが大きくなっていった。
「正木さん、この家は太賀から譲り受けたあと改装をしているのですか」
「なにせ頑丈な建物だから改装は大きくはしていないな。しかし父の時代に廊下の床をやりかえる羽目になってな、わしが覚えているのはそれと屋根を一部葺き替えた事くらいか」
「廊下ですか。確かにこの床板は他の比べて新しいですね。でもどうしてそんな頑丈な家の床が駄目になるんです?」
「不思議だな。わしにも分からん」
祐介は記憶を呼び起こしていた。もう数十年前だ。この家に来たことがある。あの時の家と寸分違わない筈なのに、何かが違う。
そう言えばタイガベルモンターニュが警察省に接収された記録があるが、この家のことはどうなったのだ。
老人と少年が談笑しながら家の中を歩く後ろをついて行っているが、会話が耳に入らない。
何だこの違和感は。
正彦は甥の正木正人に接する態度とは違う態度で総司に接していた。先日見た厳しい老人の姿はそこには無く、初孫に接する祖父のごとく、実の息子には見せないが、孫には見せるその優しい態度のような。
事実、正彦はその若い訪問者のことを一目で気に入っているらしく、芳恵がその夫の姿を見て微笑みを向けていることがその証左だろう。
祐介は考えていた。
自分がこの世界から居なくなったあと、この少年は一人ぼっちになってしまう。
自分が彼を引き取ると言い出して無理に始めた共同生活の事を、単なる自己都合の結果でしかない事を考えていた。
〜
「もう帰るのか?もっとゆっくりとしていけばいいじゃないか。何なら総司くん、今日は家に泊まっていけ。いいだろう?中村さん」
「総司、今日は甘えさせてもらうかい?」
初めての人に会うことをあんなに嫌がっていた少年がその言葉に頷いて笑っている。
『家族か・・・』
祐介は正木夫妻によろしく頼むと、頭を下げて館をあとにした。
駅まで向かうその道のり、当時から残されている緑地を横切ることにした。
薄暗くなりかけた空の明るさと、地面の光の反射が不釣り合いになった頃、街灯が灯りだした。
街灯のたもとに昔見たことのある記憶が立っていた。
「お人形さん・・・かしらね。・・あなた」
祐介はその老婆を凝視した。いつもと違う。
「マーガレット、貴女は封印されたはずだ。公臣邸で」
「そうね。あなたの知っている時間ならそういう事になるわね」
「未来が変わったと言うのですか」
「そう、姉たちがリトルミヅキと呼ぶあの娘が私の封印を解いた。それはあなたの知らない時間」
「月の絵札を使った」
「そう、狐たちが守っていた月の絵札をあの娘が奪った。だから私は最初からこの世界にいる。ただいつも狐たちの監視が付いているわ」
「貴女は何をしようとしているんだ」
「もう何もしない。何もできない。狐たちは珠の意思である私をコントロールしているから」
「じゃあ、なんの為にボクの前に現れたんですか」
「忠告に来たの」
「何のです?何を」
「この世界のグッドボーイは類稀なる力を蓄えている。あの子にあれを使わせてはいけないの。この世界が滅びるわ」
祐介は自分がしようとしている事が後の世を崩壊させてしまう事実を知らされた。
「そうそう、これを貴方に差し上げますわ」
老婆はそう言うと白煙となって外灯のランプに吸い込まれていった。
祐介の手には二枚の月の絵札が残されていた。




