70.葛藤
2262年夏〜
「総司、最近は家に居るのが少なくなったようだけど、本を読むのをやめたのかい?」
15歳の少年は初老の男性と対面して食事をすることが日課となっていた。
「うん、でも飽きたわけじゃなくてさ。あまりに早く読み過ぎたんでもう読むものが無くなったんだ。でもまた読み返してみたくなったら読んでみようと思ってるよ」
「あれを全部読んだってのか。3ヶ月で?」
「うん。中には面白くないものも有ったから、途中で読むのをやめたのもあるけどね」
「そうだな。全ての書籍が自分に合うことはないから、それを感じるだけでも、君はいい体験をしたんだ」
「うん、最近自分が賢くなったんじゃないかって錯覚をしてるよ」
二人は食事を前にして笑いあった。
「祐介さん、僕、最近深大寺の方にちょくちょく遊びに行ってるんだ。お婆さん、特にお爺さんが優しくてね。何時でも来いって言ってくれてさ」
祐介はあの正彦が総司のことを家族のように慕ってくれていることに感謝した。
〜
〜
「中村さん、君が過去に戻ったとしてあの子はどうするつもりなんだね」
「ええ、彼を育ての親から無理矢理に引き剥がしたのはボクです。その責任は重大だと考えています」
「考えるだけでは駄目だろう。どう、その責任と向かい合うのか。それが君の責務だ」
〜
〜
「祐介さん、祐介さんがあっちに帰ったら僕がこの家を貰っても良いんだよね」
「あ、ああ。そうだな」
そう答えた祐介だったが、自分の責務についての考えがまとめられずにいた。
「総司、ボクが居なくなったら君は一人きりになってしまう。でも君は家族がまだ必要な年齢だと思うんだ」
「うん、そう思う。でも今は深大寺のお爺さん達がいるよ」
「でも、あの人達もご高齢だ。いつ迄も君のそばには居られないよ」
少年はそれを聞いて考え込んでしまった。
「じゃあさ、僕も祐介さんと一緒に行くよ。ね?それが良いんじゃない」
祐介は、少年の正直で真っ直ぐ語る言葉に揺さぶられている。
しかし、言葉はその逆を表してしまう。
「駄目だ駄目だ。君はここの住人だ。本来はここで死ぬまで生きなきゃならない」
「死ぬまで生きる?なんか変なの」
祐介は、少年の真直な心に見透かされ、自分が変なことを口走ってしまった事を後悔した。
彼の中で、自分の我儘な行いが、あとに残る人を不幸にしてしまうかも知れないと言う、葛藤が日に日に堆積して心の底に澱みが生まれている。
皆が不幸にならずに済む方法を考え続けた。でもそれは見つかることの無い宝箱を探し続ける行為に等しかった。
動けば動くほど疲労は蓄積していき身体や頭に支障を来す。
そんな気がしていた。
出口が見つからない。
こんな時に社長がいてくれたら、的確なアドバイスをしてくれるだろうに。
「社長、社長か」
祐介は何かを思いつき、総司を家に残して外出する事にした。
長く乗っていなかったオートモービルに跨った彼は夜の町に出たのだった。
高い壁で囲まれた街をぐるりと回ってみた。広範囲に壁が築かれているようだ。彼は思う。なぜこの街はこんな事になったのか。資料を見ても何も書かれていなかった。まるでそれが何百年もこうであったかのように、人々はそれに無関心だった。
「大賛堂書店・・・ここか」
壁と壁が重なった場所の角地に平屋建ての小さな建物があった。
彼はオートモービルを店先に停めて、もう一度建物の全景を見つめた。
「こんな書店は僕の時代には無かった。しかもあの時代でさえ紙の本の価値は薄れていたはずだ」
祐介はまだ明かりのついている建物のドアを開けて入っていった。
「ごめんください」
書架が立ち並ぶ奥の方から声がした。
「どなたですか。もう店仕舞いしたんです」
と言いながら出てきた男は祐介を見てこう言った。
「ああ、君か。やっと来てくれたんだな。俺たちは長く君を待っていた」
が、そういう男は一人で立っていたし、他の人間のいる気配もない。
「そうなんです。だから貴方に助けを求めに来た。あの頃のようにボクの背中を押してほしいんです」
八島は祐介の肩を叩いて「こんな店先で長話は出来んな。まあ、上がりなさい」と言った。
八島は茶を出しながら言う。「彼の記憶が受け継がれているのは噴石が身体を弾き飛ばす前迄だ」
「その筈です。あの時、公聡氏は即死だった。だから、あの半分に切られた絵札が発動した。しかし、あとの世代にどうやってあの半分絵札が受け継がれていったのですか?」
「あれは男にしか発動しない。14歳になったとき、突然記憶が頭の中に無理やり入ってくるんだ。そして何処から湧くのか理解に苦しむが、突然絵札が眼の前に現れる。これは婆さん達が配達するわけじゃあないんだ」
「14の時ですか・・・それは長く苦しんだのでしょうね」
「そうだ、こんなもの厄災の他ないだろう。しかもだ、しかも、受け継いできた複数の人間の記憶も一部受け取ってしまう。気が狂いそうになるぜ」
「心中お察しします。ボクならとても耐えられそうにありません」
「それがなんだがな、中村くん。前の俺は俺の弟に会ったんだ。年老いた弟にな」
「?」
「弟は直ぐに気がついた。俺が俺だってことにな。俺はその時若い警察官だった。名前は、ほら、あいつと同じだ」
「正木さんですか?」
「そうだ、弟はこの後の世の中がどうなっていくのかを知っていた。多分、ジャンプしてここを見たんだろう。しかし君を見つけられることは無かった。時空の歪を感知してすぐ様警察官が飛んでくるからな。数秒しか滞在できなかったんじゃないかな」
「八島さん、貴方の記憶にある事を全て教えてほしい。ボクがあの世に帰るために」
「覚悟はあるのか?君はそれを躊躇して生きてきた。今それが出来るのか?帰って彼女を幸せに出来る自信はあるのかね」
祐介は八島の中にいる公聡と話をしていた。
「ええ、それはボクのずっと抱いてきた思いですから。ただ・・・」
「ただ?なんだ」
「ただ、ボクがあの世に帰ったあとの総司の事が心配でなりません」
「弟の子孫だな」
「そうです。ボクは彼を自分の目的の為だけに巻き込んでいる。その責任を果たさずに帰ることなんて出来ないんです」
「悩みどころだな。ただ帰ると決めたのなら決断は早いほうがいい。後送りにしても何もいい事なんてないぞ。それとあの家に住んでいる夫婦だが、早いうちに引っ越しをさせろ。あそこに居たままだと逮捕されてしまいかねん」
「え?どういう意味ですか。話しが飲み込めません」
八島はこれ以上にない程に眼を大きく見開いて話しだした。
「いいか、よく聞くんだぞ。君が帰る方法は二つある。ひとつは君が今考えている警察省に接収されたあの会社跡にあるあれを使う事だ」
「二つある?まさか!」
〜
ある時間軸 〜
「みんな去ってしまった。僕だけこんな年齢になるまで生きてしまったよ。何度飛んでも彼は見つからなかった。許してくれ」
白髪の老人は杖をついて墓の前に立ち尽くしていた。
墓地を後にした老人は車に乗り込んで行き先を告げた。
住み慣れた洋館の前に着いた車は門を開け敷地の中に入っていった。
セキュリティを解除して家に入ろうとした時、誰かの訪問があった事を玄関のモニターが告げていた。
表の門の前に男が立っている。
「どなたですか」
「わたくし、この度こちらに赴任しました巡査の正木と申します。出来ましたらご家族の調査をと思いまして」
老人はそれに疑問を持ったのだが、生来の性格もあったのと、しばらく孤独でもあったせいでその巡査を玄関口まで入ってくるように言った。
「いやあ、素晴らしいお家ですね。庭もまた凄いじゃあないですか」
「何のようだね。近ごろの警察は、大昔にやっていた家族調査と称した捜査をまだやっているのかい」
「失礼いたしました。わたくし正木正志郎と言います。近くに赴任したのは嘘じゃありません」
「ふふん、それは家族調査が嘘だと言っているのと同じだよね」
「やっぱりあなたには敵わないな、降参です。わたくしは貴方にお会いしたくてやって参りました」
そう笑った巡査はこうも言った。
「奥様は残念なことでした。あんな亡くなり方を・・・。お悔やみを申し上げます」
老人は少しそれに憤慨した。若い頃ならもっと怒りの丈をこの巡査にぶつけていたかも知れない。しかし自分は年老いた。人より長く生きすぎている。
「君がアマンダの何を知っていると言うんだね」
若い巡査は老人の態度の急変に反省をした。
「いえ、言葉が過ぎました。申し訳ありません。実はですね。ええ、本当のことを言います。掻い摘んで言いますと14になった時のことなんですが、そうです、もう九年も前になります。ある人の意識に、頭の半分くらいを乗っ取っとられたんです」
「何を言い出すかと思えば、何だいそれは。おとぎ話の読みすぎかい。僕も不思議な体験は腐るほど経験・・・・いや、続けなよ」
若い巡査は、ほっとしてまた話しだした。
「それがですね。その意識というか記憶みたいなものは素晴らしく鮮明でして、勉強もしないのに科学とか化学の事が理解出来たりしたんですよ。おかげで警察官採用試験にも利用させてもらいました。それで、自分は二次募集の一般ですから、採用されて任用されても、何処かの交番に無作為に飛ばされるのが普通なんです。でも試験の成績が他の者より良かったようで、教官室に呼ばれた時に配属希望地を聞いてもらえたんですよ。ああ、これは内緒なんですがね。いや、話を戻します。自分は希望地を深大寺近くの交番にしたんです」
「どう言う事だ?」
「貴方がここに住んでいるからですよ」
「大したストーカーだね。僕みたいな老人になんの興味があるんだ?」
「実はこの屋敷にある装置に用事があるんです。太賀公臣さん。いや、こそばいなそんな風に言うと」
杖を壁に立てかけて公臣は「入りなさい。立ち話で住む話ではなさそうだ」と言って玄関を開けて巡査を招き入れた。
靴を脱いで若い巡査は、案内を待つことなくエントランス右側の奥の書斎につながる廊下に向かった。
公臣はその様子を黙って見ていたが、彼は廊下の途中にある大きな両開きの扉がある部屋の前で立ち止まった。
“番紅花色”に二度塗りされ、鮮やかな装飾が施されている重厚なスライディングドアがあった。
「そう。ここに劉さんが隠れていた。遠い昔だ」
巡査はそう言うとスライディングドアを静かに開けた。
「これはまだ動きますか。公臣さん」
「君は何者なんだい?何故これを知っている。それに劉さんの事なんて誰にも言った記憶は無いんだけどね」
正木と名乗る巡査は、頭を掻きながら少し悩むような仕草をしていた。
「兄さん?兄さんが中に居るってのか?まさか」
「・・・あの葬式の日のことは貴方には内緒にしていたみたいですよ。お兄さんは」
「葬式?」
巡査はその日のことを克明に語った。
自分たち双子が産まれたのは、最初から老婆たちに仕組まれた企みだった事。そして家庭が崩壊したのは母親の精神不安定が原因などでは無く、双子を強制的に産まれるように、非承認薬剤を使用した暴挙により後遺症として精神不安定が引き起こされた事などを語った。
「その半分の絵札が意識の伝達を引き起こしたってのかい?まあ、いかにも彼女たちならやりかねない事だよね。それにしても母さん。母さんは利用されたんだ」
「そうです。公聡氏はそれに大層憤慨されていました。でも貴方には内緒にしておきたかった様です」
「ふん、それで今になって君が代わって告白をしているのかい。馬鹿らしい」
正木巡査は中にある公聡の記憶の代弁をしているだけだったが、それは彼に出来る中にある後悔の儀式だった。
「話を変えて申し訳ありませんが、実は受け継がれてきた人の記憶も少し継承されてしまうんです。前の人は、他人の記憶が自分に有る事が原因で何かが壊れてしまい、精神病院に入れられてしまった。自分はそうならない為に対策をしたかった」
公臣はそう言った若い巡査を見つめていた。
「ふうん、他人の記憶なんて厄災が降り懸るみたいなもんだよね。あの日、僕と兄さんは一度死んだ。だから、その半ぺらが悪さをしたって事?その後も僕達は生き返って生活をしていたけど、記憶ってのは一度目の死ぬまでのものなのかい?」
「そうです。なぜ死んだのかは知らないままです」
「まあ、君の言うことを信じることにしてもいい。で、君の本当の目的をそろそろ話してくれよ。あるんだろ、目的が」
「さすがわが弟君。察しが早いですね」
「冗談はよせ。君は兄さんではない」
〜
正木巡査はその後15分ほど滞在して館を去った。
いつもの孤独な館での独りに戻った公臣はこう呟いた。
「まだまだこの物語は終わらない、いや終われない。僕達が死んで消し炭のようになっても、記憶がそれを探そうとする。立石さんの子どもを探し続けるんだ。安心した。これで本当にやっと死ねる気がしてきたよ」
〜
「正木さん、公臣氏はこうして貴方の曽祖父に会った。そして何らかの取り決めを二人で交わしたんだと思います。深大寺の館にあったあの機械を隠した。時が来るまで、それを使うものが現れる時間まで」
正木は仰天した。祐介が言っている事を信じられなかったからだ。
「中村さんよ、叔父の家に、あれと同じ次元転移装置が隠されてるってのか?そんなもの何処に隠す余地があるんだよ」
「ええ、ボクも不思議だったんです。あの家には一度行ったことが有りますが、僕はその時母親に意識を乗っ取られていた。だから、見たような気もしてるけど、実際はよく覚えてないんです」
「隠し部屋があるってのか。そんなもの建物の形状や間取りの繋がりを考えたら簡単に分かるはずだし、地下室が有ってもスキャンすればすぐに見つかるさ。どうだ、早速行ってみるか?」
~
正木の叔父の館 〜
「正人に中村さんか?ちょうど総司も遊びに来ているぞ。まあ上がれ」
正木の叔父は厳格な人だったが、最近孫のような存在の少年が訪れることに歓びを感じているようだった。好々爺と呼ぶに相応しいような老人になっていた。
正木は叔父に向かって言う。「叔父さん、実は大変な事が判明したんです。この家に公臣氏が隠したあるものが残っている可能性がありましてね。今日はそれを調べに二人で来たんですよ」
正彦は先程までの笑顔を消して前にいる甥を睨んだ。
「それは犯罪に繋がるものなのか」
「おそらく」
「母さん、しばらく誰が来ても玄関を開けるんじゃないぞ。門扉と玄関のセキュリティを入れてくれ」
芳恵はそれを聞き別室に行った。
「中村さん、言い出したのはおそらくあんただと思うが、ここにそんな物が本当にあると言うのかね」
「はい、これは正木さんの曽祖父の正志郎さんと公臣氏との間に交わされた密約なんだと思います」
正彦は、自分の祖父が太賀に与していた事にも驚いたが、現職であるはずの甥が、違法行為を今まさにしようとしていることに心が落ち着かなくなっていた。
「正人、お前は、お前のやろうとしている事に収拾を付けることができると言うのだな」
「はい、叔父さん。事がはっきりしたら此処を早々に引き払って欲しいんです。ここに居ては御夫婦共に犯罪者になってしまい兼ねません」
「長年住み慣れた館を出ろと言うのかね」
「はい」
正彦は目を瞑りしばらく考え事をしていた。
「手続きはお前がするのか?イリーガルな事をして」
「はい、そうなると思います」
〜
「正木さん、ここです。先日の訪問時も、ボクはここにどうしても違和感を感じていたんです」
廊下の真ん中に立った祐介は、壁の中央に造られたアルコーブを指さした。
「ほら、ここの床板はこのアルコーブに向って柾目に敷かれてます。廊下の敷き方と90度違うんです。こんな短い距離をわざわざこんな風に施工する意味が解りません」
正彦が床板をしばらく見て言った。
「確かに言われればそうだな。いつも見ているものだから何も不思議には思わなかったぞ」
正木は小さなスキャン装置を動かし、小棚の上に花瓶が載せられているアルコーブに向けた。
「中村さんよ、ご推察のとおりだ。この奥に大きな部屋がある」
〜
「正人、それは本当なのか。ここに部屋だって?この家のことは隅から隅まで知っている。裏に回ってもそんな部屋なんて有るようには見えん。んん?裏?まさか!」
そう言った正彦は走り、庭から家の裏に廻った。
何十年と住んだ家で、見慣れた家屋の外観がそこにあったが、一部だけ窓のない壁が地面から屋根まで続いていた。
「なぜこんな事に気が付かなかったのだ。巧妙に作られてはいるが、この壁だけ二重壁だ。形状を複雑にして部屋の間取りを錯覚する様に建てられている」
そして廊下に戻った正彦の手には、納屋から取り出した沢山の大工道具が握られていた。
「正人、少々気は引けるがやってみようと思う。手伝ってくれ」
正彦は生来の几帳面な性格を前面に出して作業に取り掛かった。先ず床と壁の境目にあるオークの巾木をすべて取り外していった。
正木はそれを呆れて見ていた。
「叔父さん、それじゃあ日が暮れますよ。ここは大胆にいかないと」
正彦は作業の立てる音によって、甥の言った言葉を聴かぬふりをした。
「正人、ここは自分の家だ。今はな。ほらそこの床に当木をして壁を起こしていけ。ゆっくりだぞ」
甥の正人は、その言葉にもう反抗することなく作業を手伝っていった。祐介も取り外した家屋の建材を屋外へ運ぶ。次第に壁が取り除かれ、廊下の窓から射し込む陽の光でその奥にある扉が照らされていた。
「蕃紅花色の扉だ」
正彦はやり遂げた作業の充実感など持てるはずのない葛藤を感じた。
「これが見つかると自分たち夫婦は犯罪者だな」
甥は言う。「いえ、今なら第三者扱いみたいなもんですよ。こんな事を知らずに親から継承したんですからね」
芳恵も戻ってきてその光景に言葉が出ないようだったが、気丈に夫に声を掛けた。
「お父さん、ここには何があるんです?お爺さんの隠し金庫かしら」
と言って夫の手をそっと握った。
正木は扉を前にして祐介に言う。
「中村さんよ。もしこれがまだ動作可能だとして、一回だけ起動した途端に、うちの課の人間はここを特定してすっ飛んでくる。それは解るな?一回しか使えねえって事だ。でもあんた、こないだ俺に言ったよな。一度何かの時間軸に行って戻って来ると。どうするつもりだ。どうやって二回のジャンプを可能にするんだ」
祐介は今まで考えていた計画を正木に語りだした。
「おい、そりゃあ無茶だぜ。一陣目が来て、それの連絡が途絶えたら二陣目が来る。俺にはそれを止めることは出来ん」
「僕が止めるよ」
総司が芳恵の後ろから顔を出して言った。
正彦は孫のように可愛がっていた総司少年が予想外の言葉を発した事に驚いた。
「そ、総司くん。なんと言ったんだ。もう一度言ってくれ」
「だからさ、お爺ちゃん。僕がそれを止める役目なんだよ。その為の太賀の血筋って訳さ。ね?祐介おじさん」
正彦は祐介の方を睨み言った。
「中村さん、あんたはこの子を危険な目にあわせるつもりなのか。もしかして、他人のあんたがこの子を引き取った理由はそれなのか?」
祐介は、正彦の真実を突く言葉の重さを噛み締めていた。ここ数ヶ月悩んでいるのもその事が原因だったし、事実、よく眠れない日が続いていたのも確かだった。祐介は正彦の問いには答えず総司の方を向いた。
「総司、君にあの力を使わせることはしない。これはもう決めたことなんだ。君は僕を見送ってくれるだけでいい」
「え?祐介さんは僕にやれと言ったり、今はやめろと言ったり、もう無茶苦茶じゃないか。僕が今までやってきたのは何なのさ!」
「すまない総司、君を弄ぶことになった事は謝る。この通りだ。ボクはこの数ヶ月の君との生活で君に愛情を感じている。君を危険な目にあわせたくなくなった」
正彦は祐介の言葉に嘘がないことを感じ取っていた。時空の迷子になってしまった彼は、どんな手を使っても自分のいた所に帰るだろう。しかし、ひとつの有効な手法を無くしてでも良いとさえ考え始めている。彼は狡い人間ではないのだと。
「中村さん、正人、そして総司、よく聞いてくれ。自分たちはここを離れることはしない。母さんも分かってくれるはずだ。なあ母さん」
芳恵は静かに頷いてみせた。
「あくまで第三者だと言い張るつもりだ。それは嘘ではないからな。自分は嘘は好かん、分かるな?正人」
彼は呆然と叔父を見つめていた。自分とは違い嘘を極端に嫌う叔父のことを。
「叔父さん、叔母さん。それはお勧めできません。是非とも俺の言うことを聞いてほしいんです。おそらくこの機械を作動させた途端に俺の部下たちが飛んできます。第三者とはいえ聴取をしなければなりませんからね。ご負担を掛けたくないんです」
正彦は甥の言うことも理解は出来たが、それ以上に、これからの自分の行動が真っ直ぐでない事に対して嫌悪していた。
「正人、何とかなるさ。自分も警察官の端くれだ。正直に申し出れば済む話だ。ただひとつだけ嘘をつかなくてはならんがな」
〜
ある時間軸。蕃紅花色のドア 〜
「正志郎くん、君はこの機械をどうするつもりだ」
「わかりません。ただ、この先の時代において“この機械”は面倒事の大元になる様な気がしています」
「ふん、それじゃあなにか?時空を飛ぶことが規制されるってのかい?」
「ええ、巡査の自分には知る術は本来は皆無なんですがね。何やらきな臭い事が起こるかもしれない事をある方から聞いたんです。自分がここに来たのはそれが理由でもあります」
「きな臭い?何だそれは」
「貴方は少し前に本を書いたでしょう?あれは荒唐無稽なフィクションとして一般には認識されていますが、そうは見ていなかった人が居るんです。その人物は政府のアドバイザーの様な形で官房に属している。それが警察省を裏から動かしているとの噂です。近いうちに貴方の会社が標的になります。先ずは株価の操作から始まって、内部に仲間内を送り込んでくる」
「それらの狙いは何だね、正志郎くん」
正木正志郎は、咳払いをわざとして言葉を続けた。
「あなたの会社の地下室にあるもう一台のこれですよ。これを手に入れる為にどんな手でも使ってきます。だからこれを守らなければならないんです。あちらが取り上げられたとしても、これの存在は本にも書いていない。ねえ?そうでしょう?」
公臣は険しい顔で正志郎を睨んだ。
「確かに本には書かなかったよ。僕はプライベートを覗かれるのは一番嫌いなんだよ。木村くんはいつもずけずけ入ってきては僕のプライベートをぶち壊したんだ。やれやれさ。しかし、守るために君は何をしようとしてるんだ?一体どうやって守るつもりなのさ?」
正木正志郎は体躯の良い男であったがいささか身長が足りず、背の高い公臣からは見下される形になっていた。しかし、上を見上げるその眼差しは光っていて、口から吐き出される言葉は強く、その度に公臣を圧倒していた。
「自分に考えがあります。それに乗ってくだされば、これは守られるはずです。これを使うものが現れるまで」
〜
34時間前 〜
男は書架の中から一冊の本を取り出した。
「これを見たまえ」
祐介は手渡された本を見た。
彼は最初に背表紙を、そして巻末の奥付けを見た。
題名は『海に背く者』
奥付けを見た祐介は八島に訊き直した。
「これは本当に正しい年号が記載してあるんですか?」
「そうだ。間違いは無い。正しい年月日が印字されている」
「ではこれは誰かがその時代から持ってきた、という事ですか」
「そうだ。君たちのやってきた事、分岐してしまった時間軸、そして、これから起こるであろう事が書いてある。読んでみるかね?」
祐介は八島の誘い言葉に戸惑っていた。
未来を知り得ることはこれからの行動に何らかのメリットがあるかも知れない。しかし、それを読んだ瞬間に元には戻れぬ時間軸に移送、あるいは現在が書き換わってしまうかも知れない。危険を孕んだ行為に思えていたからだ。
「八島さん、貴方はこれを僕に読ませてどうしたいのですか。ボク達は歴史を変えすぎてしまった。だからその罰として、ボクはここに飛ばされたのかも知れないという気にさえなっているんですよ。これ以上歴史を変えないほうがいい」
八島は過去から飛んできたかつての部下の事を慮った。
自分が頭の中にいる別人のせいで人生の半分を乱されたことは別にして、その記憶の中にあった眼の前の人物の若い時の様々な失敗を知っているし、またそれを覚えているからだ。
「中村くん、今からは太賀公聡として言わせてもらうぞ。君は選択肢を目の前にして、いつも迷い、他人がどう考えるのか人からどう見られているのか、それを失敗した時にどんな繕い方をするべきか、だいたいそんなことばかり考えてきたんだろう?年重がいってそれが直ったもんかと思っていたら、何だねそれは。君は何にも変わっちゃいないじゃないか。そんな事で、そんな君のままで緑村くんに会うというのかね」




