七. 過ち②
あの日から、あの女性は湖に来なくなってしまった。
いつまで経っても来てくれないので、様子を見ようと川を下って村に行くと、小さなテントが燃えているのが見えた。
そして直感で感じた。
あの女性がいると……
思わず川岸に踏み出した足を熱気が焦がした。
こんな状況でも陸上のものに触れてはいけないのか。
助けに行けない自分の宿命を呪った。
だから、必死に叫んだ。
誰かあの女性を助けてくれ。
子どもたちを助けようとして、独り逃げ遅れてしまった優しいあの女性を。
しかし、どうすることもできなかった。
あの女性以外、誰も自分の姿に、声に、気づかないのだから。
もう火の手は誰にも止められないようだった。
風に煽られた火が村を襲い、人々は逃げ惑うばかりだった。
だが、1人だけ違った。
若い男が逃げもせずテントの前に立っていた。
誰でも良い!
彼女を助けてくれ!
叫んだ時、炎が一際大きくなって彼を照らした。
彼は笑っていた。
『アハハハハハッ! 良いぞ! 燃えろ、燃えろぉぉ! 俺を拒んだのが悪いんだ、エスメラルダァッ!』
その瞬間、自分の中で何かが砕けた。
おぼろげになる記憶の中で、自分の声にならない叫び声が聞こえた気がした。
***
ハイドとスラウは柱に身を隠しながら皆が逃げ込んだ部屋から遠ざかっていた。
今は少しでもコレを引き離さなくては……
走りながらスラウはぎゅっと目を閉じた。
見えなくても相手の場所を突き止めてみせる。
「……っ!」
咄嗟に飛び上がると、氷柱がさっきまで走っていた所に突き刺さった。
跳躍している間にも氷は飛んで来る。
避けきれなくなり、どうにか柱の陰に滑り込むとハイドも隣の柱の陰に滑り込むところだった。
相手の居る位置は大体の予想がついている。
だが……
スラウは眉をひそめた。
果たして相手は人なのか?
ゾルダークが連れていた部下にしては、とてつもなく大きな威圧感を覚える。
手にした砂時計を見る。
砂が完全に落ちるまで。
それがハイドから与えられた時間だった。
「よし!」
自分を奮い立たせて柱から踊り出る。
その時、微かに何かが床を擦る音が聞こえた。
ズズズーー
それは通路の床に渦を描くように伝わっている。
すぐ頭上を掠める氷を避け、再び柱の陰に回り込んだスラウは思い浮かんだ1つの可能性に目を見張った。
「まさか!」
突然、辺りが静けさに包まれた。
違和感を覚えて恐る恐る顔を出した瞬間、息を呑んだ。
この気迫と威圧感……間違いない。
今や思い浮かぶ答えは確信的なものになっていた。
「龍だ……」
光によって再現されていた龍。
あんなものと対峙していたのか……
そんなことを考えていると、風を切って何かが飛んできた。
咄嗟に身を伏せた瞬間、身体が床に押さえつけられた。
「カハッ……!」
骨が悲鳴を上げる。
スラウは思わず身をよじった。
『いかにも……我はこの湖を守りし者。貴様ら人間に邪魔はさせぬ』
自分を押さえつけているのは龍の鉤爪のようだ。
そこから抜け出そうともがくも、身体を持ち上げることすら叶わなかった。
細く目を開けて手元の砂時計を盗み見る。
「もう……少し……」
その時、ピシピシと小さな音が床を伝ってきた。
床の温度が一気に下がっていく。
突然、スラウを押さえつける力が緩んだ。
「ゲホッゴホッゴホッ……ハイド……」
盛大に咳き込んだスラウは隣に立つハイドを見上げ、目の前の氷塊に思わず息を呑んだ。
氷の中に銀色の鱗の真っ赤な瞳を持つ龍が現れたのだ。
蛇のようにとぐろを巻いた尾は回廊いっぱいに広がっている。
だが、すぐに咆哮と共に早くも氷塊が崩れ始めた。
長い尾の銀色の鱗が露わになり、白い歯をむき出した龍の顔の半分に氷を残すのみとなった。
「急げ」
ハイドの言葉にスラウは手を前に突き出した。
手の中に集まった金色の光が剣を形作った。
『浄化!』
光が龍に向かって奔り出た。
だが、その瞬間、龍が再び吼えて光が弾き返された。
「そんな!?」
スラウは思わず声を上げた。
「こんなこと、今までなかったのに!」
細かく砕けた氷が2人に降り注ぐ。
龍は天井近くまで首をもたげると2人を見下ろした。
その眼光にスラウは思わず後退りしたが、氷柱の飛んでくる気配はなかった。
不思議に思っていると霧が広がり始めた。
「視界を遮るつもりか……」
ハイドの声が聞こえたが、いつまで待っても龍が動く気配は無かった。
だが、ただの霧でないことに気づいた時にはもう遅かった。
「息……がっ……!」
スラウは首を押さえて膝をついた。
息が苦しい。
薄れゆく意識の中でハイドが宙に吊り上げられているのが見えた気がした。
***
部屋が霞んでいる……
ラナンは何度か瞬きをした。
ガンガンと鳴る頭を振った時、突然、何もかも思い出して勢いよく飛び起きた。
ランジアはどこだ?
アイリスとアキレアは?
ラナンは後ろから聞こえた呻き声に振り返った。
ちょうど2人が起き上がったところだった。
「大丈夫か?!」
2人はゆっくり頷いた。
ラナンは険しい顔で部屋を見渡した。
ランジアの姿はどこにもない。
「くそっ!」
小さく毒づいて、部屋を見回す。
広い部屋だが、最低限の家具しか置いていないこの部屋は、なんだか殺風景に思えた。
照明はなく、窓の向こうの湖に射し込む淡い光が揺らめく度に影が伸び縮みしていた。
突然、アキレアが声を上げて、壁に走り寄った。
「見て!」
彼女の手には深緑色の筒が握られている。
「それ、もしかして笛か?」
ラナンの声が思わず上ずった。
「もしスラウの言っていた話が本当にここで起きたことなら、守り神が吹いていた笛のはずだ!」
「随分使い古されているみたい。塗装が剥がれかけている……でも、壊れているわ」
「あら、見て。ここにもある。これとくっつかないかしら?」
「ありがとう、アイリス。どうやら、これでひとつになるみたいね。でも、どうして折られているのかしら?」
アキレアは2つの筒を近づけて首を捻った。
***
スラウはだらりと腕を下ろした。
もがく気力すら、もう残っていない。
遠くで誰かが名前を呼んでいるような気がした。
『竜巻!』
回廊に風が流れ込んできて霧が晴れた。
宙に吊り上げられていたハイドも糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「スラウ! ハイド!」
咳き込む2人にフォセが駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
差し出された小さな手を取り、スラウはぼんやりと頷いた。
「アイリスたちは?」
ガンガンする頭を動かして後方に見える扉を指差す。
「あっちに……」
言いかけたスラウは我に返ると慌てて剣の柄を掴んだ。
「スラウ?」
怪訝な顔をして尋ねるフォセを目で制した。
その瞬間、頭上で咆哮が轟いた。
「何、あの大きいやつ!?」
上を仰いだ彼女の目が大きくなった。
「この湖の守り神だよ。フォセ、他のみんなは?」
「途中までは一緒に来たよ。スラウたちが危ないのが見えたから急いで来たの」
「大丈夫か?!」
グロリオが通路から現れた。
彼に続いてチニとライオネルが大きな荷車を引っ張ってきた。
大丈夫、答えようとした瞬間に風を切る音がした。
「しまった!」
だが、龍はこちらには見向きもせず、荷車に突っ込んでいった。
「ちっ!」
ハイドが印を結んで氷の壁を築き、龍の行く手を阻んだが、龍はスピードを緩めなかった。
「わわっ……!このままぶつかってくる気だよ!」
「チニ、任せて!」
フォセが起こした強風が氷の壁を打ち砕いた。
無数の氷の破片が龍に向かっていく。
龍は目を細めると身を翻した。
「早く行け!」
ハイドの声にチニたちは回廊の先に見える部屋に向かって走り出した。
そこへ再び龍が突っ込んでいく。
「うわぁぁっ! もうこっち来てるぅぅっ!」
フォセが叫んだ瞬間、ライオネルが指を上げた。
床から大樹が生えてきて枝をいっぱいに広げ、龍を阻んだ。
行く手を阻まれた龍の苛立たし気な咆哮が響いた。
「それ、龍?!」
荷車に乗せられていた赤い龍を見たスラウが慌てて身を引くと、ライオネルは安心しろと手を振った。
「今やることは2つだ」
グロリオはそう言うと、指を2本立てた。
「1つはあのデカい龍を止めること。もう1つはこっちの手負いの龍の手当てだ。呪鎖は破壊したが、それと湖の拡大は関係なさそうだった……だが、こいつはゾルダークに捕まっていたから何か知っているかもしれない。回復し次第、話を聞き出す」
「そう不審がるなよ、ハイド。夜明けまでに解決するにはこれしか手はない」
ライオネルが眉をひそめるハイドの肩を叩いた。
「あとどれくらいの時間が必要なの?」
スラウが尋ねた時、樹の幹が大きくぐらついた。
龍が突進を繰り返しているのだろう。
「すまない、はっきりとは言えないんだ。大まかな処置はしたが、かなり衰弱している。できるだけ急ぐよ」
グロリオはそうだな、と頷いた。
「とりあえずライは治療に専念してくれ。アイリスにも手伝ってもらうと良い……こっちのデカいのは俺、ハイド、フォセ、スラウで止めよう。チニ、お前はラナンと防壁でライたちを守れ。万が一、龍に部屋を破られた時の保険だ。ランジアが見つかったんだよな? アイツとアキレアには俺たちをサポートしてもらおう」
「それがね」
スラウが言いにくそうに口を開いた。
「アキレア、急に具合が悪くなっちゃって……」
「そうか!」
ライオネルが思わず目を見張った。
「ここは湖の中。火とは完全に相性の悪い環境だ。長くいればいるほど、消費する力も多くなるはずだ」
グロリオは思わず拳を固めた。
以前、それと同じ理由でハイドとランジアが苦戦したことがあった。
あの時は今よりも滞在時間が短かったからどうにかやり過ごすことができたが、今回はそうはいかないだろう。
「それなら仕方ねぇ……今は休ませろ」
「もう保たないぞ」
ライオネルが上を見て険しい顔をした。
幹がミシミシと音を立てて傾いている。
「ライ、チニ! 俺に続け! 俺はランジアを連れてくる!」
「待て」
ハイドはそう言うと印を結んだ。
扉まで誘導する氷の道が現れた。
「ありがとな、ハイド! これで楽に……」
ライオネルの言葉の途中で、チニが勢いよく転んだ。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
衰弱しきった小さな龍を乗せたまま、荷車は勢いよく扉に突っ込んでいった。




