七.過ち①
赤ら顔の男は空になった酒瓶を片手に、千鳥足で歩いていた。
ぼんやりとした思考の中で、自分が何か大きなことをやったことを感じながら……
ふと誰かに呼ばれた気がして彼は立ち止まった。
「だぁれだぁ……俺を呼ぶのはぁ……」
声につられて彼は霧の深い森へ入っていった。
「へへへ……エスメラルダぁ……お前かぁ?」
声は彼を森の奥へ奥へと誘い込んでいった。
気がつくと、彼は切り立った崖の上に立っていた。
凍てつくような風が痛いほどに吹きつけていた。
「んぁ?」
彼はふと目の前に伸びる巨大な柱に気づいた。
それはゆっくりと蛇のように首をもたげ、赤い眼光が彼を射抜いた。
「ヒィッ……!」
本能が危険を知らせているが、酔った身体は重く、引き返そうとする意思に逆らうようだった。
「りゅ、龍……!」
彼は思わず叫んだ。
「バケモノがぁぁっ! や、やめろぉっ! くるなぁっ!」
酒瓶を振り回して喚く彼を龍は黙って見下ろしていた。
突然、男の身体に纏わりつくように霧が濃くなった。
彼は突然、膝をつくと首を必死に掻きむしり始めた。
「ガッ……!」
龍の赤い瞳が細くなった。
地面に倒れ込んでもがいていた男の身体が、まるで引き寄せられるように崖の端へ引きずられていく。
彼はとうとう自分の身に起こっていることに気がついた。
男の断末魔が深く暗い谷底に吸い込まれていった。
***
動物の姿のままのラナンはスラウの肩の上で湿った鼻をヒクつかせた。
「ん? 匂いが変わったぞ」
「そーお?」
スラウも真似してみたが、よく分からなかった。
次第に反響する靴音も大きく聞こえるようになり、いつの間にかスラウたちは大きな回廊を歩いていた。
規則正しく並ぶ白い支柱が天井を支えている。
その突き当たりの部屋の扉が不意に大きく開け放たれた。
「ランジアだわ!」
アイリスが声を上げ、隊員たちは走り出した。
ラナンがスラウの肩から飛び下り、人間の姿に戻った。
「怪我は?」
彼の問いにランジアはドアノブを掴んだまま首を振った。
「大丈夫よ。この部屋に居ただけだから……ライたちは一緒じゃないのね?」
「ここで落ち合うことになっているのよ」
アキレアの言葉にランジアの顔が一層険しくなった。
「任務は失敗よ。今すぐにここを離れてちょうだい」
すぐさまドアを閉めようとする彼女の肩をアキレアが慌てて押さえた。
「ちょっと待って、ランジア! 失敗ってどういうこと?」
「私はここに残るわ。すぐ帰るから心配しないで」
「い、意味が分からないわよ! 説明して!」
突然、ハイドの持っていた松明の炎が消えた。
「……何?」
アイリスが不安げに振り返った。
辺りに霧が立ち込め、周りの壁が青白い光を放ち始めた。
「……っ!」
突然よろめいたアキレアをアイリスが支えた。
「大丈夫?!」
「え、ええ……」
「体力の限界ね、アキレア。あなたとグロリオは火の天上人。空気があるとはいえ、ここは湖の中。水との相性が悪い火の能力の消耗が激しいのも無理はないわ。つまり、早く帰れってことよ」
「ちょっとランジア……」
反論しかけたアイリスを遮り、ハイドは背後を睨んだ。
「来る」
その瞬間、何かがこちらに飛んできた。
ハイドが咄嗟に召喚した槍でそれを弾き飛ばした。
ガンッと重い音がしたかと思うと、彼らの足元に鋭く尖った氷の刃が転がっていた。
「気を抜くな」
ハイドが剣を構えた。
今や、風を切る音がはっきりと聞こえる。
「数が増えた?」
スラウは目を凝らしたが、明かりが消えた今、何が飛んでくるのかがよく見えない。
甲高い音と共に無数の氷の刃が突然目の前に現れた。
「……っ!」
身構える隊員たちの前に氷の壁が現れ、刃の行く手を阻んだ。
「部屋に入れ」
ハイドに言われ、ラナンは唇を噛んだ。
「くそっ……! 今はアキレアを休ませるぞ!」
彼に続いてアキレアを支えるアイリスとランジアが部屋に駆け込んだ。
「スラウ! お前も来いよ!」
ラナンは振り返って叫んだ。
「スラウってば!」
もう1度呼んだが、スラウは前を見据えたまま叫んだ。
「扉を閉めて!」
氷の刃が、反応の遅れたラナンに向かっていく。
スラウはそれを砕いた。
「早く!」
気圧されたラナンは慌てて扉を閉めた。
「私もここで止める」
隣に並ぶと、ハイドは眉をひそめた。
「大丈夫。足は引っ張らないから」
スラウはそれに、と呟いて氷の壁を見つめた。
「ハイド独りじゃ止められない……」
その瞬間、2人は同時に飛び上がった。
ハイドの作った氷の壁が決壊し、扉に氷柱が突き刺さった。
「……あっぶねぇ」
ラナンは今しがた閉じたばかりの扉を見つめた。
これが鉄製でなかったら、穴が空いたのは扉だけではなかっただろう。
身震いするラナンの隣にアイリスが並んだ。
「アキレアは大丈夫か?」
「ええ。あそこで休んでいるわ。かなり疲労している。ライに診てもらうまでしばらくここにいた方が良さそうね」
アイリスは無残な形にひしゃげた扉を見て顔をしかめた。
「それにしても、一体何だったのかしら」
「彼の仕業よ」
振り返ると、ランジアが立っていた。
「彼?」
ランジアは首を傾げるラナンを視界の隅に捉えたまま、部屋をウロウロと歩き始めた。
「彼は、私たちの契約主である村の人々がかつて信仰を寄せた神であり、今なお、恐れられているこの湖の守護者でもあるわ」
「ここにいるのはエスメラルダじゃなかったのか?」
ラナンが尋ねると、ランジアは面倒くさそうに息を吐いた。
「彼といったでしょう。本来、守り神である彼は人間に姿を見られることはなかったわ……ただひとりを除いてね。それが……エスメラルダよ」
「何だって?!」
「何故かは分からないけれど、彼女には彼の姿が見えた。それまで誰に知られることなく存在していた彼にとって、エスメラルダがどういう女性だったのか、想像つくでしょ」
「……スラウが話していたことか」
ラナンは首を振るとランジアの話を促した。
「だけれど、エスメラルダは殺された。求婚を断られた逆恨みによってね」
「待てよ」
ラナンは頭に浮かんだ疑問に思わず割って入った。
「じゃあ、エスメラルダは死んじまったのに、何で村の人は……」
「何故、彼ではなく、エスメラルダが人々から忌み嫌われているのか? 答えは簡単よ。あの人たちはあまりにも不可解な悲劇に遭いすぎた。村の自慢の娘エスメラルダの殺害、その命を奪った男の変死、そして突然湖の底に沈んでしまった故郷……この悲劇の連鎖を受け入れるには、理由が必要だった。彼女は殺されたから、復讐にあの男を殺したんだ。誰も彼女を助けなかったから、報復として村を沈めたんだ。そういう風にね」
「断定するにはあまりにも不確かな根拠だったのに……」
呟くアキレアを一瞥するランジアの目は相変わらず冷たかった。
「天上人なら判断を誤らないと? フン……馬鹿馬鹿しい。そういうわけで、残念だけど、エスメラルダと湖の拡大に繋がりはないわ。任務は失敗よ。早く帰って、身の丈に合った低いランクの任務を受け直したら?」
「ランジア」
アイリスが咎めたが、ランジアは気にしなかった。
「恐らく彼はエスメラルダが死んだことを知らないわ。ずっと独りで湖で彼女を待っていたのよ。そこに彼女と瓜二つの者が現れたら?」
「……」
「今、彼は私を必要としている。あなたたちが私を連れていこうとすれば、彼はエスメラルダ を再び失うと思うはずよ。それを全力で止めようとするのも、可笑しくないでしょ?」
***
スラウは飛んできた氷柱を歯を食いしばって弾き返した。
相手の場所が分からないから、次の攻撃がどこから飛んでくるのか検討もつかない。
「ハイド!」
声を上げるスラウの横を氷の刃が掠めていった。
シャツの袖が音を立てて裂けた。
「どうすれば良い?!」
「居場所を突き止めて斬る」
「どうやって?!」
「……」
返答はない。
スラウは額を伝う珠のような汗を拭った。
動きが少しでも鈍くなれば、全ては躱せなくなる。
だが、見えない相手とどうやって戦えば良い?
「見えない相手?……そっか!」
ふと脳裏に、散々苦しめられた剣術の稽古のことが蘇ってきた。
***
「随分上手くなったじゃないか!」
サギリが白い歯を見せて笑った。
手には透き通った球が握られている。
彼が稽古前に訓練生に作らせていたものだ。
球は水を薄い氷で覆っただけなので、何かにぶつかれば、その衝撃で氷が割れて水が出る。
スラウは投げられた球を無傷のまま剣で弾き飛ばす練習をしていた。
「じゃあ、次はこれをつけてやってみろ」
「うわっ! ちょっと! 急に投げないでよ!」
スラウは慌てて手を伸ばしてそれを受け取った。
「え、これ……布?」
「目隠しだ」
ポカンと口を開けるスラウをよそに、サギリは球を上に投げて遊んでいる。
「見ないでやるの? どうやって?」
弄んでいた球を握りつぶしたサギリはスラウに向き直った。
「俺たちが物の動きを捉える時、視覚だけを使っている訳じゃねぇ。聴覚、嗅覚、触覚と言った他の感覚も使っている……この稽古で他の感覚を鋭くする。そうすれば物の僅かな動きを把握できるようになり、どんなに視界が悪い場所でも戦えるようになる……この間みたいなヘマをすることもないしな」
評議会に疑われてから、自分たちには常に監視がついている。
以前、それを忘れて騒ぎを起こしかけてサギリに止められた。
何となく気まずくて黙っていると、早くしろと急かされてしまった。
「目隠し、しましたっ!」
サギリの立っているであろう方向に向かって叫んだが、答えは返ってこなかった。
首を捻ってもう1度叫ぼうと口を開いた瞬間、顔に冷たい水がかかった。
気が動転してバランスを崩し、尻餅をついた。
サギリの笑う声が聞こえる。
「ははははっ、剣で弾くどころじゃねーな!」
手探りで落とした剣を探るも、地面に生えている草を掴むばかりだった。
「ほらよ」
サギリの声がさっきより近くで聞こえた。
手を借りて立ち上がると、しっかりと剣を握らされた。
「球が当たっても怪我はしねぇから。思い切ってやれよ」
頷いて剣を構える。
来い!
そう思った瞬間に、顔にまた水がかかった。
「あはははっ! ちゃんと他の感覚を使えよ! 次は連続して投げてやる。1発で良いからまずは当ててみろ。そしたら今日の稽古はおしまいだ」
その後、がむしゃらに剣を振り回したが、結局、その日は服がぐしょぐしょに濡れただけだった。
***
「つまり、お前がいなくなったのは湖の守り神が、お前をエスメラルダだと勘違いして連れて行ったってことか? なら、人違いだって伝えてやればこの攻撃は止まるんだな」
1人で納得するラナンにランジアが苛立ちを露わにした。
「それは出来ないわよ!」
「何でだよ?」
「彼はずっと孤独だったのよ? そして私を見つけた……彼には私が必要なの!」
「いや、違う。そいつが求めてんのはお前じゃねぇ、エスメラルダだ。彼女が死んだことを知らねぇなら、教えてやるべきだ」
「そうはいかないわ」
ランジアは呟くと目を伏せた。
「この湖はじきに枯れる……私には視えたの、ここの未来が……枯渇した湖は彼の生命の終わりを示す。だから……」
「だからって、守り神が死を迎えるまで一緒にいるつもり?」
弱々しい声に振り返ると、休んでいたアキレアが立ち上がったところだった。
「私たちの任務を忘れていないわよね? 契約主の到着する夜明けまでに湖の拡大を止める、このことが……」
「分かってるわよ!」
ランジアは腹立たしそうに遮った。
「言ったでしょ?! 私には視えるのよ! この任務は失敗する! 全て、あなたたちがここにいるせいなのよ!」
「でもね、ランジア。私たちがやらなきゃ、湖は……」
今まで黙っていたアイリスも口を挟んだ。
「夜明けまでに拡大を食い止めるれば良いんでしょ、大丈夫よ。私が原因を突き止めておくわ」
「俺たちが数日かかっても出来ないことを、お前独りでやるっていうのか? 大体、お前はエスメラルダじゃねぇ。それじゃ、根本的な解決にはならな……」
「ならなくて良いのよ。彼が死ぬまで、このことに気づかなければ良いもの。いずれにせよ、この任務にあなたたちは必要ないわ」
「でも」
アキレアが口を挟んだ時、扉の向こうで身の毛のよだつような咆哮が聞こえた。
「何、今の……?」
囁くアイリスを押しのけ、ランジアは扉に耳を押し当てていたが、ふとラナンたちを振り返った。
その表情は不気味なほどに落ち着いていた。
「最後にもう1度聞いてあげるわ。この任務は失敗する……それでも引き返さないのね?」
「何だよ! 何が言いたいんだよ?! さっきから失敗、失敗って決めつけて……お前の言う未来だって、確証はないんじゃねぇのか?!」
ラナンの言葉にランジアは顔を歪めた。
「ほら。私がどんなに正しい過去や未来を伝えたところで、あなたたちはいつも自分に都合の良い所だけしか信じないじゃない……都合の悪いことは全部、「ありえない」って言って相手にもしない」
「……一体、何の話だよ?」
「ああ。あなたは知らないんだっけ? じゃあ、後ろの2人聞いてごらんなさいよ」
言われるがままに振り返ったラナンは思わず目を見張った。
アイリスもアキレアもひどく傷ついた顔をしていた。
我に返ったアイリスが思わず叫んだ。
「ランジア! 何する気?!」
いつのまにかランジアが印を結んでいて、部屋に霧が立ち込めてきた。
「忠告はしたわ。私は私のやりたい方法でやる。もう2度と邪魔はさせない……」
「ランジア! 止めろ!」
走り出したラナンを阻むように霧が濃くなった。
ズン――
突然、足が沼にはまったかのように動かなくなった。
腕や脚が重い……
ラナンは床に倒れ込んだ。
寝息を立てて眠る3人を見下ろしていたランジアはつと顔を上げた。
霧の中に黒い覆面をした人物が立っている。
「今度はそっちが約束を守る番よ」
そう言って睨みつける彼女に男は肩を震わせて笑った。
「必死だな……それだけ奴のことを知りたいか」
その言葉にランジアは思わず唇を噛んだ。




