六. 湖の龍②
一方、スラウたちは今朝来た洞窟の最深部に再び足を踏み入れていた。
洞窟を満たしていた水は夜の訪れと共に引いていた。
「ふりだしに戻った気分ね」
アキレアが呟いた。
部屋全体が青白い光を放っている。
スラウは思わず目を細めた。
「綺麗……」
先頭を行くハイドが松明を掲げた。
部屋の中心の石像が赤と青の光に照らされて浮かび上がった。
「ねえ、見て!」
石像に駆け寄ったアイリスが声を上げた。
「この石像……ランジアにそっくりよ!」
「本当ね。あら見て」
アキレアが石像の足元に屈んで指差した。
「エスメラルダ、って書いてあるわ」
「ねえ」
スラウはぼんやりと石像を見上げているラナンに声をかけた。
「エスメラルダさんの話、どう思った?」
「ん? ああ、そうだな……お前くらいの歳で死んじまって可哀想だなぁとは思うが」
「そうじゃなくてさ。知ってる話と似ている気がするんだけど」
「……?」
「『彼が笛を吹き、彼女はそれに耳を傾けた。全てはそこから始まった』ってフレーズ、覚えてない?」
「何だっけ?」
「もう……前にフィルが聞かせてくれた話だよ。忘れちゃった?」
「2人とも何の話をしているの?」
アイリスが尋ねてきた。
「フィルのこと、覚えてる? 彼、行商団でいろんなところを旅しててね。あちこちで聞いてきた伝承を教えてくれたんだ」
――彼が笛を吹き、彼女はそれに耳を傾けた。
全てはそこから始まった。
これが物語の最初の文だった。
***
ある湖に1人の青年が住んでおりました。
彼は湖の辺りで水を汲みに来た人を眺めているのが好きでした。
この湖には不思議な力が宿るとされ、病気を治すことができると信じられていました。
これを信じた多くの人々は足繁く湖に通い、湖畔はいつも賑わっていました。
ある時、彼の目をとりわけ引く少女が現れたのです。
哀愁の漂う美しさをたたえる彼女に、彼は一目で恋に落ちました。
細い腕に大きな木の樽を抱え、彼女は毎朝やって来ました。
彼は彼女が水辺にしゃがんで髪を搔き上げる仕草が好きでした。
幾度も彼女に声を掛けようとしましたが、その度に彼は思い留まりました。
彼の姿が誰かの目に写ることはない。
彼は湖の守り神なのだから。
彼はある日、笛を手に湖面から突き出た岩の上に座ると、彼女を想って笛を吹きました。
その音はまるで川のせせらぎの音のように優しく湖に響いたと言います。
そして同じ頃、湖にやってきた少女はある日、美しい音色を聞きました。
川のせせらぎのように静かで、潮流のようにどこか情熱的な音色を……
彼女は手を休め、ずっとそれに聞き入っていました。
彼が笛を吹き、彼女がそれに耳を傾ける……
いつしかそれが2人の日課になっていきました。
ある日、彼が笛の演奏を終えると、小さな拍手の音がしました。
驚いて顔を上げると、向かい側の岸で、はにかんだように笑うあの少女がいました。
彼女には自分が見えている。
彼は驚き、逃げるようにその場を去りました。
それから数日の間、彼は湖には行きませんでした。
姿を見られたことに動揺していたのです。
しかし、どんなに努力しようとも彼女を忘れることが出来ませんでした。
とうとう彼は再び笛を持ってあの岩へ向かいました。
数日前と同じ場所に彼女は立っていました。
彼に気がつくと彼女はにこやかに手を振りました。
その時、彼の心に初めて抱く感情が湧き上がりました。
とても温かくて心地良く、それでいてどことなく切ない、そんな感情が……
彼は微笑み返し、おどけたようにお辞儀をしてみせると、ゆっくりと笛を口元に持っていきました。
***
「素敵なお話ね」
アイリスが呟く隣でラナンは首を捻った。
「それがこの湖とどうして関係があるんだ?」
「ええっと、両方とも湖のお話だから……」
「大体、今の話は俺たちが地上界に居た時に聞いた伝承だろ?」
「でも、それがこの湖で起きていたものを伝えていたのだとしたら?」
アキレアが目を輝かせた。
「天上人は時空だって越えられる。2人が聞いたものが今、目の前で起こっていても可笑しくはないわ!」
「それなら、その物語の最後にヒントがあるんじゃないかしら?」
アイリスの言葉にスラウは眉間に皺を寄せた。
「わ、私が覚えてるのはここまでたよ。あまり良い終わり方はしなかったと思う……ごめんね」
「気にするなよ。俺なんか話を聞いたことすら忘れてたんだから」
ラナンはそう返すと、跳躍して動物の姿に変わった。
「やっぱりな。微かに空気の流れを感じる……今朝、ここへ来た時も風の音が聞こえてた。どこかに出口があるはずなんだ」
それまで空を凝視していたハイドがふと壁に近寄った。
彼の細い指が壁の窪みに触れ、低い音が洞窟に響き始めた。
「見て!」
アイリスの指差した壁がゆっくりと動き始めた。
土の壁が動き、青銅の扉が現れた。
草の絡まり合う彫刻が上に向かいながら1つに合わさっていく。
扉の中央部分に丸い穴が開いていてガラスがはめ込まれていた。
「ふんっ!」
スラウが扉を押そうとしたが、びくともしなかった。
ラナンはその様子を視界の隅に捉えながら辺りを見渡した。
「スラウ、ちょっと石像の目の前に立ってくれ」
「こう?」
「そうだ。その石像、ペンダント掛けているよな? それを調べてくれないか」
スラウは言われるがままにペンダントの縁をなぞった。
風化しているのか、亀裂が走っている。
それはペンダントを縁取るように弧を描いていた。
「あれ?」
スラウは思わずペンダントの下で指を止め、思わず首を傾げた。
「でっぱりがある。開くんだ」
ペンダントの縁に指を引っかけて蓋を引っ張り上げると、楕円の形に彫られた石が持ち上がった。
「細かい細工ね。ペンダントに蓋がついているなんて」
アイリスの言葉にラナンは満足そうに頷いた。
「やっぱりな。中に何かが入っていると狙っていたんだ」
「え? 何も入っていないよ?」
「いや、そんなはずはないぞ?」
スラウは蓋の取れたペンダントを用心深く触り直した。
「あ、待って! この石、取れるかも」
縁から飛び出た小さな突起が石を支えるように囲っている。
試しにそれを引っ張ってみると容易く外れた。
アイリスが近寄り、不思議そうにスラウの手の上に乗っている石を見つめた。
磨かれているのか、滑らかな表面だった。
「文字が書かれているわけではないのね。それに、扉のガラスにはめるには大きすぎるわ」
ハイドも遠巻きに石を見つめていたが、興味を失ったように目を逸らした。
「何か分かったの?」
アキレアが尋ねたが、彼は答えなかった。
スラウはぼんやりと上を仰いだ。
「あれ?」
「何か思いついたの?」
「ううん……そう言えば、何でここ光っているんだろう、って思ってさ……今朝は光ってなかったのに」
「そう言えばそうね……」
アイリスが考え込んだ時、天井から水が落ちる音が響いた。
「……水だ」
ラナンが突然弾かれたように顔を上げた。
「え?」
「水だよ!」
ラナンは答えを見つけたようで嬉しそうに尻尾を振った。
「日が昇っている間、この洞窟は湖に沈む。恐らくこの石は水に触れると光を放つんだろう。だから、今朝ここに来た時には石は乾ききっていて光っていなかったんだ」
「それがこの石と何の関係があるの?」
アキレアが首を傾げ、ペンダントを調べていたスラウが答えた。
「この像は入り口の方を向いていないでしょ? つまり、光を放つ石をここに入れれば、エスメラルダのペンダントから出た光がガラス玉に届く。これが扉を開ける方法なんじゃない?」
ラナンは興奮したように頷いた。
「ああ! その証拠に、彼女の持つ盆には水が溜まっているだろ? これに石を浸すんだ」
スラウはゆっくりと石を水の中に沈めた。
次第に石が青白く光り出した。
「まぁ……」
アイリスが溜め息を漏らした。
再びペンダントにはめ込まれた石は仄かに辺りを照らした。
「あれ? これじゃ、光が扉まで届かないや」
「蓋を閉めろ」
ハイドに言われるままに蓋を被せると、光が絞られ、1本の糸のように細い光が扉に向かって奔り出た。
ガラスが光を受けて部屋を白く照らした。
最初は小さく、そして次第に大きく、地響きと共に洞窟が揺れ始めた。
しばらくすると、ゆっくりと地面を擦りながら扉が開いた。
『……ですが』
開かれた扉を見つめるスラウの頭の中で、フィリップの語りは続いていた。
『彼女はある日を境に湖へ来なくなりました。だから、あなたも湖に行った時は、そっと耳を澄ませてみてください。今も恋人を想う彼の笛の音が聴こえるかもしれませんーー』
「……スラウ?」
ラナンの言葉にスラウはふと我に返ると慌てて彼に続いて扉の向こうへと足を踏み入れた。
この話を最後まで話すべきだったのだろうか?
そう内心悩みながら……
***
「何か思い出したか?」
銀色の髪の青年は細い身体を屈めると、目の前の椅子に座る少女を見つめた。
俯く少女の長く艶やかな黒髪が顔を隠している。
「いいえ。ごめんなさい……」
「謝ることはない。もう君の傍を離れはしない。一緒に思い出していけば良い」
彼は彼女の白い手に手を伸ばしかけたが、思い留まったように手を引っ込めた。
青年は立ち上がって天井を仰ぎ、目を閉じた。
銀色の長い睫毛が面長の顔に暗い影を落とす。
かつての記憶が蘇ってきた。
ある日、彼は勇気を出して彼女の柔らかな頬に手を伸ばした。
だが、すぐに手を引いた。
すまない、消え入りそうな自分の声に彼女は驚いたようだった。
陸上のものに触れてはいけない。
それが自分の掟だった……
火傷の痕の残る右手を翳していた青年はふと険しい表情を浮かべた。
「また奴らが帰ってきた。やっと追い出したのに……すまないが、少しここで待っていてくれ。すぐ戻るから。僕らの邪魔をする奴は許さない」
彼が部屋を出た途端に少女は髪を掻き上げ、立ち上がった。
「もう少しだわ……まだ何か見落としている。もう少しで全てが繋がるはずなのに……」
ランジアはそう呟くと部屋を見回した。




