三. 霧の湖②
「あれを見て!」
アイリスが叫んだ。
グロリオは彼女の指差す先を見た。
霧の向こうでぼんやりと松明が揺れている。
「火か!」
グロリオはとっさに手を前に突き出した。
ヴォン―――
鈍い音と共に赤い光を放つ剣が現れた。
グロリオが炎に包まれた剣を振るうと、刃が火の粉を振り撒きながら燃え上がった。
亡霊が腕で顔を覆いながら湖へ戻り始めた。
「アイリス、俺の後ろに居ろ」
グロリオは剣を前に突き出し、もう一方の腕を横に広げて彼女を庇うようにして立った。
「持つか、夜明けまで……」
グロリオは祈るように剣先の炎を見つめた。
今、自分の手に握られている剣は己の気が具現化されたものだ。
これを保つ為には相当の神経と集中力を要する。
つまり、長い時間具現化すればするほど、自分の体力がすり減ることになる。
だが、それから間もなく呻き声が共鳴し始め、次第に霧が濃くなってきた。
炎に怖気づいたように後退していた亡霊たちが再びこちらに向かってきた。
「くそっ!」
霧が濃くなれば火を燃やし続けるのも難しくなる。
みるみるうちに剣を包む炎の勢いも衰えてきた。
じりじりと間合いを詰められ、今や自分たちの方が後退せざるをえなくなってしまった。
「グロリオ!」
チニの声が聞こえた。
彼は丘の上で防壁を張っていた。
「全員、撤退だ! アレに入れ!」
グロリオの声で隊員たちは丘を目指して走り出した。
最後にラナンが中に転がり込むと、チニは防壁を完全に閉じた。
ラナンは髪に絡まった草を払い落として小さく毒づいた。
「くそっ! ランジアの気配が感じられねぇ。どこにいるんだ?」
防壁の向こうに目を向けると、今や、亡霊たちは湖から這い上がり、こちらとの距離を詰めてきていた。
「チニ、朝まで持ちこたえられるか?」
ライオネルが尋ねるとチニは顔を上げた。
瞳が不安げに揺れている。
「頑張ってみる。だけど無理かもしれない……数が多すぎるんだ」
「チニの体力をここで消耗させるわけにはいかないわ。何か考えなきゃ」
アキレアが呟いた時、先頭を進んでいた亡霊が防壁に到達し、顔を押し付けてきた。
開いた瞼から覗く白い眼がこちらを向き、チニは思わず顔を歪めた。
「あっ!」
アイリスが短く叫んだ。
集中が乱れたせいで防壁に小さなひびが入ったのだ。
外のひんやりとした空気が流れ込んできた。
「どうしよう?!」
まずい。
狼狽えるチニにグロリオは内心で呟いた。
このままでは、動揺したことで更に防壁の強度が落ちてしまう。
穴が出来たことに動揺して集中が乱れて更に穴が広がる。
悪循環に陥ったらそこから抜け出すことは難しい。
集中しなくては、という焦りが穴を広げることになるからだ。
みるみるうちに防壁に穴が幾つもできてしまった。
「ご、ごめん……」
僕のせいだ。
チニは震える唇を強く噛んだ。
僕が集中できなかったから。
その時、震える肩に温かい手が乗せられた。
振り返らないでも分かる。
ライだ。
チニは深呼吸をして前を見据えた。
できる、自分に言い聞かせる。
ライが支えてくれているんだもの。
防壁の穴が再び閉じ始めた。
「チニ!」
突然アイリスが叫んだ。
穴から伸びていた亡霊の手がチニの細い首を掴んだのだ。
その手を振り払う力も残っていなかった彼は目を閉じ、彼らに引きずり込まれた。
慌ててライオネルが彼を抱き寄せたが、チニの手がだらりと下がると共に防壁が崩壊した。
亡霊が一気にこちらへなだれ込んできた瞬間、辺りが眩い光に包まれた。
「みんなぁっ!」
「フォセ! スラウ!」
アイリスが声を上げた。
2人は茂みを軽々飛び越え、亡霊に突っ込んでいった。
「いっけぇ!」
スラウは手のひらに集めた光の球を大きく振り被って亡霊にぶつけた。
球が幾筋もの光を放って辺りを照らすと、彼らは次々に地面に崩れた。
「とりゃぁぁっ!」
フォセの手を中心に風が巻き起こり、周りの木々を巻き込んで風が吹き荒れた。
隊員たちは慌てて防壁を築いて、飛んでくる木や岩から身を守った。
風に吹き飛ばされて霧が晴れ、雲の隙間から月が顔を出した。
気がつくと亡霊の姿も消え、湖は再び静寂に包まれていた。
フォセがチニの元へ走り寄った。
「チニ! 大丈夫?」
彼はライオネルの膝に頭を乗せて休んでいた。
「あぁ。気絶しているだけだ。少し休めば大丈夫だよ」
ライオネルの言葉にフォセは頬を膨らませた。
「もう……無理ばっかりするんだから」
結局、ランジアの姿はどこにも見当たらなかった。
ひとまず夜明けを待つことにしたのだが、時間はなかなか進まなかった。
グロリオが苛だたし気に懐中時計を取り出しては眺め、溜め息を吐いた。
フォセも無心に足元に転がっている枝を拾っては折る、というのを繰り返している。
皆、互いにひと言も口をきかずにただ夜明けを待っていた。
まるで幻でも見ていたかのように、それ以来は亡霊の影はなく、湖はしんとしたままだった。
逆にその静寂が不気味に思えた。
ふと気がつくと湖の向こうの空が白み始めていた。
「……朝か」
ラナンは大きく伸びをして首を回した。
「長い1日になりそうだな」




