三.霧の湖①
「着いたよ!」
フォセがつま先立ちして手を振った。
夕暮れの赤みがかった山を背景に広大な湖が広がっている。
夜が近づいていることもあり、水面は黒々としていた。
グロリオは静かな水面に目を細めた。
「村人たちが来るのは早くても2日後だ。まだ時間はある。湖の調査は夜が明けてからにしよう。交代で見張りを立てるぞ」
岸辺の小さな丘に向かっていたアイリスは不意に誰かにぶつかってしまった。
「あ。ごめんなさい、ランジア……どうしたの?」
ランジアは片足を踏み出したまま湖を見つめていたが、ふと我に返ると、別に、と呟いて歩き出した。
岸辺には大きな木が1本立っていた。
スラウはそこの根元に足を投げ出して腰を下ろした。
「大きな湖だね」
背後の声に振り向くとチニが立っていた。
彼は険しい顔で湖に目を向けた。
「僕……感じるんだ。この湖はとても巨大な力を持った何かがいる。それが龍じゃなかったとしても……」
スラウはじっと彼を見つめた。
生物は生命力に応じた大きさのエネルギーを発しているという。
彼は人一倍、それを感じやすいのだろう。
不意に後ろからフォセが顔を覗かせた。
「いい加減、怖がり治したら?」
「治す、って病気じゃないんだから」
チニが言い返すと、彼女は舌をぺろっと出した。
「ライなら治してくれるかも」
「流石にそれは無理だ」
いつの間にかライオネルも会話に入ってきた。
「怖がりは薬で治せるものじゃないし、必ずしも悪いとは限らない。フォセにも、ある意味必要だよ」
「どういうこと?」
「怖がりは慎重ということでもあるからな」
「じゃあ、何? あたしには慎重さが足りないって言いたいわけ?」
フォセが頬を膨らませて拗ね、ライオネルは軽快に笑った。
夜が深まるにつれ、霧が深くなってきた。
スラウは膝を抱えたまま焚き火を見つめていた。
火の爆ぜる音だけが聞こえる。
眠気を振り払うように重たい頭を振る。
隣でアイリスが穏やかな寝息を立てている。
霧のせいで視界は狭められているものの、音もしないし気配も感じない。
だが、夕方のチニの言葉が妙に引っかかっていた。
何かいる。
龍ではなくても強大なエネルギーを発する何かが……
いや、それだけではない。
スラウはゆっくりと腰を屈め、切株の上で脚を組み直した。
引っかかるのは皆の態度だ。
昼間、村の周辺の森を探索するよう言われていた自分とハイドは村での出来事を何ひとつ知らされていない。
契約主とどんな契約を交わしたのか、何故決められていなかったはずの任務の期限が2日後に縮められたのか……
いつもならどんな小さなことでも話してくれていたのに。
評議会に疑われてから、どこか隊員たちが浮き足立っているように思える。
話してくれないと言えば、あのことについてもそうだ。
掃除の時に見つけた肖像画。
あそこに写っていた人は一体……
すぐ背後で聞こえた枝の折れる音に我に返った。
音を立てないように振り返り、手を前に突き出す。
ヴォン――
鈍い音と共に、手の中にひと振りの剣が現れた。
剣先が霧の中で妖しく白い光を放った。
「剣を下ろしてくれ、俺だ」
霧の中にライオネルの姿がぼんやり見えた。
「万全の警戒態勢だな」
「ご、ごめん」
「いいよ、謝らなくて」
慌てて謝ると、彼は微笑み、抱えていた枝の束を下ろした。
「それは?」
「ああ……この霧、ますます濃くなると思うんだ。そうしたら焚き火も保たないだろ? 火が消えたら、警戒していた獣が寄ってこないとも限らない」
「……なるほど」
そう時間も経たないうちに焚き火が弱まってきた。
ライオネルはもの言いたげにこちらを見つめたが、言うか悩んでいるようだった。
何となく察しがついた。
「火、起こす?」
かつての獄焔のトラウマがあることを気遣い、いつも隊員たちは自分の居ないところで火を起こしてくれる。
「あ、いや、気にしなくて良いよ」
「でも……」
スラウが口を開きかけた時、グロリオが目を覚ました。
「お、交代か?」
霧の中で、もぞもぞと人の動く気配がした。
ランジアも起きたようだった。
「あ、グロリオ。火が消えそうなんだ」
ライオネルがこれ幸いとグロリオに声をかけた。
「了解。スラウ、ライ。交代だ。寝て良いぞ」
ライオネルは小声で目を覚ました2人に状況を報告すると、自分の毛布を取り出した。
「……寝ないのか?」
スラウは膝を抱えたままだった。
「もう少し起きてる」
気持ちがモヤモヤとしている。
今回任務のこと、みんなのこと、そして何より……
肖像画に描かれていた黄金色の髪の青年のこと。
彼に関しては、何も教えてもらえていない。
彼が何者で、何故今は居ないのか……
どれも聞きづらくてそのままにしていた。
考えている間にも霧がより濃くなってきた。
グロリオが欠伸を噛み殺して話しかけてきた。
「スラウ。もし起きているんだったら、枝や枯れ葉を集めてきてくれないか? ライの持ってきた枝も尽きそうだ」
スラウは灰色の煙を上げて燻る火を見つめて頷いた。
「私も行く」
フォセがもぞもぞと起き上がると、目を擦った。
彼女の周りで微風が渦を作り、霧を散らしていた。
「霧がうっとおしくて仕方ないんだもん。全然寝られんない」
「フォセ、最初からあまり力を使いすぎないで」
ランジアが静かな声でフォセを咎めた。
スラウは不機嫌そうな彼女を連れて焚き火を離れた。
2人が去ってすぐのことだった。
火はすっかり消えてしまい、煙が頼りなげに揺れていた。
グロリオの声が聞こえた気がしてランジアは目を細めた。
霧のせいで皆の姿もぼんやりとしている。
いつのまにか黒い空を照らしていた月も雲に姿を隠してしまった。
「この湖、何か変よ」
試しに声に出してみた。
グロリオには聞こえたのだろうか?
生欠伸と曖昧な返事が聞こえた。
瞼が重い。
ランジアは前を睨んだ。
ここに着いたときに見たもの。
誰も気がつかなかったのだろうか、足場のない湖の中央に立っていた人影に。
それにしても静かな夜だ、本当に……
次第にランジアは静かな眠りに落ちていった。
ラナンはふと目を覚ました。
自然に起きたというより、自分の感覚が危険を察知して無理に起こされたという感じだ。
霧はすっかり濃くなり、目の前は真っ白だった。
腐った魚のような臭いに思わず顔をしかめる。
動物の姿でいる間、感覚が研ぎ澄まされるのは良いが、極度に感じやすくなっているのは頂けない。
ラナンはぴくりと長い耳を動かした。
何か来る。
まだ酷く小さいが、水を掻き分ける音が聞こえる。
この時間の見張りはランジアとグロリオのはずだ。
彼らならこれを聞き逃すはずがない。
皆はどうしているのだろう?
何故誰も何も言わないんだ?
地面に鼻を近づけ、微かな香りを頼りにグロリオの元へ走った。
彼は樹にもたれかかって座っていた。
ラナンは人の姿に戻り、グロリオに話しかけた。
「おい、グロリオ。この音が聞こえるか?」
何気なく肩に触れた時、グロリオの態勢がぐらついた。
慌てて肩を掴んで支える。
「おい、グロリオ?! グロリオ!」
ラナンは逸る気持ちでグロリオを揺り動かした。
その時だった。
水を掻く音が聞こえてきた。
この姿の耳でも聞き取れるということは、さっきより何かが近づいてきているということだ。
鼻につく臭いに胸にムカつきを覚える。
「この臭いでも起きないのかよ?」
ラナンは小さく呟くと、グロリオから手を離した。
とにかく誰か起こさなくては。
足が誰かの身体に触れ、ラナンは必死にそれを揺すった。
突然、胸元に短剣が突きつけられた。
驚いて身を引くと短剣も引っ込んだ。
「ラナンか……どうしたんだ?」
起こしていたのはライオネルだったようだ。
彼は霧の中で立ち上がると不快そうに顔をしかめた。
「それにしても……何だ、この臭いは?」
「分かんねぇ。だが、何かが来てんのは確かだ。他の奴らも起こさねぇと」
ライオネルはゴソゴソと腰につけた鞄を漁り始めた。
「少々手荒にはなるが……」
そう言って取り出した小瓶には茶色い液体が入っていた。
蓋をしてあるにも関わらず強い臭いが鼻につく。
湖からの臭いと瓶の臭いが混ざってラナンは鼻をつまんだ。
ライオネルは手早くローブで自分の鼻を覆うと、グロリオの傍らに屈んで、それを鼻に近づけた。
手慣れた手つきで瓶の蓋を取る。
その瞬間、グロリオが勢いよく噎せた。
「ゴホッゲホッ……」
涙ぐみ鼻を押さえてもんどり打つグロリオを横目にライオネルはハイド、チニに同じことをした。
2人とも同じように地面にのたうち回っている。
自分が起こす側で良かった、ラナンは内心安堵の息を吐いた。
「一体何なの?」
アキレアは欠伸を堪えると、思わず鼻をつまんだ。
「ケホッ……酷い臭いね」
アイリスも起き上がると、悶絶するグロリオたちを見やった。
グロリオが息も絶え絶えに口を開いた。
「ライ、何もそれを使わなくても……」
「仕方ないわよ、あなたは寝起きが悪いんだから」
アキレアがすかさずツッコミを入れた。
「僕は……ゲホ……すぐに起きるよ……」
チニはまだ苦しそうだ。
その時、周りを見回していたアイリスが首を傾げた。
「まだ数人見当たらないわ」
グロリオの声が返ってきた。
「フォセたちは焚き火用の枝を集めに行っている。ランジアは……居ないのか?」
「こっちにはいないわよ?」
その瞬間、一同に緊張が走った。
水を搔く音と共に不気味な音が聞こえてきたのだ。
高い音や低い音が混ざった呻き声はさながら海のさざ波のようだ。
ラナンは思わず目を見張った。
霧の中から朧げな緑色の光を放つ亡霊の軍団が現れたのだ。
水面から顔を出した亡霊のせいで湖一面が緑色の靄に覆われたように見えた。
彼らは両手を前に突き出し、湖から這い上がってきた。
「……何て数だ」
思わず呟くラナンの横でグロリオが声を張り上げた。
「ランジアの話はあとだ! ひとまずここを切り抜けるぞ!」
その声を待っていたかのように、ライオネルの手から矢が放たれた。
だが、亡霊にとっては意味が無かったようだった。
彼らは岸に刺さった矢をものともせずに踏みつけた。
今度は向こうから無数の矢が降ってきた。
その瞬間、チニの張った防壁が隊員たちを覆い、矢は防壁に触れると黒い煙を上げて消えていった。
「まずいな……」
ライオネは唇を噛んだ。
こちらの攻撃は効かないが、相手は十分な殺傷能力がある。
その時、亡霊に矢を射続けているアキレアの姿が目に入った。
「アキレア。やめておけ。矢の無駄遣いだ」
「ライ?」
アキレアは霧の向こうのぼんやりとした人影に目を凝らした。
「実体を持たない者に矢や剣は効かない」
「でも、どうするの? このまま向こうの攻撃を受け続けろとでも言うつもり?」
「いや……」
ライオネルは必死に思案を巡らせた。
もう少し明るければ、状況の把握もできて手の打ちようがあるのだが……
「そうか、そういうことか!」
彼は目を輝かせると霧の向こうに向かって声を上げた。
「アキレア! 矢の先に火をつけて射てくれないか?」
彼女はライオネルの意図に気づいたようで、うごめく亡霊に向かって矢を放った。
『曼珠沙華!』
矢は案の定、彼らの身体をすり抜けて地面に突き刺さった。
しかし、その瞬間、矢の先で火花が散って地面の草木を燃やしながら広がった。
それを見た亡霊は炎から逃れようと、じりじりと後退し始めた。
「これは!?」
思わず目を見張るアキレアの耳にライオネルの声が聞こえた。
「亡霊は太陽のある間は気配を消していただろう? もしかしたら明かりが苦手なのかもしれない」
ライオネルはそう言うと空を見上げた。
今、空には灰色の雲が重たく立ち込め、月の光を遮っていた。
「それじゃ、こうすればいいわね?」
アキレアは落ちていた木切れに火をつけ、ライオネルに手渡した。
彼が松明を亡霊に突き出すと彼らは後退った。
「このまま夜明けになれば良いが……」
ライオネルは不安な気持ちを拭いきれなかった。




