二.儀式と供物①
暗闇の向こうで誰かが自分を呼んでいる。
冷たい石の床の上で膝を抱えていた少女はゆっくりと顔を上げた。
ギィ――
小さな鉄格子のついた木の扉が開けられた。
栗色の髪の男性が扉の脇に立って手招きしている。
彼の後ろから少女と同じ髪色の女性が顔を覗かせた。
目元は赤く腫れ、時折鼻をすすっている。
女性はしばらく顔を男性の胸にうずめていたが、ふと身体を離して膝をつくと微笑んだ。
「……」
名前を呼ぶ声が震えている。
細い手が髪を撫で付けた。
「良い子ね……」
「……行かないと」
男性が女性を促した。
彼らのすぐ横の階段の先でフードを深く被った2人がこちらを見下ろしていた。
「お願いします」
頭を下げる両親の姿を振り返る少女に1人が声をかけた。
「大丈夫。怖がることはありませんよ」
ふと長い廊下が途切れて日の光が一気に降り注いできた。
ざわめいていた群衆は、少女が現れたのを見ると静まり返ってしまった。
彼女はその生気の失せた眼で周りを見まわした。
自分を囲む村人たちの表情とは裏腹に、久しぶりに見た青い空は透き通り、日が高く昇っている。
青々とした草木がそよ風に揺れていた。
道を開ける人々の視線は小さな裸足を追っていた。
彼女の着ている純白のワンピースが風に翻った。
道が途切れ、少女は顔を上げた。
大きな石碑の前に荒削りの白い石の台が置かれていた。
サイダン。
大人がそう口にしているのを聞いたことがある。
その横には黒い礼服に身を包んだ細身の男性と杖にもたれかかる老人が待っていた。
不意に両隣の2人が数歩下がり、石碑に向かって頭を下げた。
それを見届けた司祭は胸元から小さな本を取り出すと鼻眼鏡を掛けて読み上げ始めた。
その間、少女はじっと白い石を見つめていた。
冷たい風が素足に吹きつけ、彼女は小さく身震いした。
この震えが寒さのせいだけではないことは薄々分かっていた。
「それでは、前へ」
その言葉に導かれ、彼女は前に足を踏み出した。
サイダンの前で待っていた老人は目線を逸らして囁いた。
「……ここに」
少女は黙ってそれによじ登るとその上に身を横たえた。
石の冷たさが全身を包み込む。
青く澄み切った空はどこまでも広く、吸い込まれてしまうような気さえした。
本をしまった司祭は剣を引き抜いた。
「この命を神に捧げよう」
空を切る音に赤ん坊を抱いた女性は目を逸らし、村人たちは目頭を覆った。
ガン――
固い音が響いた。
少女はゆっくりと目を開き、その異様な光景に思わず身を起こした。
剣は地面に突き刺さり、司祭と老人が身体をくの字に折り曲げて地面に転がっていた。
いつのまにか現れていた臙脂色のローブの人物がそれを見下ろしている。
「何をする?! 血迷ったか?!」
群衆の1人が叫んだ。
「おいおい」
彼は被っていたフードを脱いだ。
くしゃくしゃになった赤い髪が太陽の光を受けて輝いている。
日に焼けた小麦色の肌に明るい茶色の瞳。
この村の者ではないことは誰の目に見ても明らかだった。
「血迷ってんのはお前らだろうが」
呆気に取られている群衆にも目をくれず、彼は少女の手をとると辺りを見渡した。
「あ、いたいた。はい、あなたたちの子でしょ?」
彼は群衆の中に紛れるようにして立つ2人に微笑みかけたが、母親は怯えるように夫の袖を引っ張り、彼は勢いよく青年の頬を叩いた。
「なんてことをしてくれたんだ!」
「え……?」
その声で我に返ったように人々が口々に叫び始めた。
「おいおい、ちょっと待てよ! 助けてやったのに、何で……?」
戸惑う彼の胸ぐらを1人が掴んだ。
「龍の祟りを知らんのか!」
その瞬間、人々の間に戦慄が走った。
彼の言葉を非難する者、怯えたように我が子を抱き言葉を交わす女性たち。
皆、龍を恐れているようだった。
その時、少女の母親が声高に叫んだ。
「誰か! 誰か、この男を殺して!」
人々は青年に飛びかかると腕を掴んで引きずり回し、棍棒で殴りつけた。
「おい、コイツも仲間だぞ!」
数人が近くにいたもう1人を捕まえて、フードを剥ぎ取った。
明るい赤毛の短い髪が露わになる。
橙色の澄んだ瞳は怯えたように揺れていた。
「アキレア! やめろ! 彼女に手を出すな……カハッ……!」
もがく青年を人々は狂ったように殴り続けた。
「あたしの……せいだ……」
気を失った2人が引きずられていくのを見ていた少女は地面にへたり込んだ。
***
かび臭い空気が鼻をつき、目を覚ましたグロリオは飛び起きた。
「ここは……っ!」
頭が割れるように痛い。
ガチャガチャと重い金属が擦れる音に振り向くと、両手首に掛けられた手錠の鎖が柱に巻き付けられていた。
ぼんやりとしていた視界がはっきりとしてきた。
時折、石の天井から水が落ちている。
どうやら地下牢の中らしい。
目の前の太い鉄格子に腕を伸ばすと関節が悲鳴を上げた。
「アキレア? アキレア、無事か?!」
声が暗闇に響いた。
「……」
微かに声が聞こえる。
グロリオは藁にもすがる思いで床を這った。
壁の上に小さな窓が開いていて格子がはめられていた。
声はそこから聞こえるようだった。
「アキレアか?! アキレア! 無事か?!」
グロリオは石の壁を叩いた。
「……グロリオ」
「アキレア! くそっ! 壁さえ無ければ君の隣に居られるのに……」
「違うの、グロリオ」
彼女の声は弱弱しくも、はっきりと聞こえた。
「ねぇ、1つ聞いても良い……?」
アキレアは再び小さく息を吸った。
「私たち、これからも変わらずにいられるわよね?」
グロリオはしばらく壁に背中を預けて考えこんだ。
「……それはこの任務のことか?」
答えは返ってこなかった。
グロリオは言葉を選ぶように口を開いた。
「約束する。これから先、何があっても俺たちは変わらない。だけど今は、今だけは……目を瞑っていて欲しい。俺が目指した隊は威信を取り戻すことだけを考えて動くようなものじゃない。それは分かってる……だからこそ、今はなりふり構っていられないんだ。ナキュラスが居なくなったのは他でもない、俺のせいだ。俺の実力が認められていなかったから、アイツは1人で行っちまった……あんなのはもうごめんなんだ」
グロリオはそこで言葉を切るとそれに、と続けた。
「先走ったことをしたのは分かってる。今回の任務の契約主は特定されていないから、村の誰かと接触すれば良いって思ったんだ。あの子を助ければ、その礼として契約も結べると思ったが、アキレアの忠告通り、そう簡単にはいかなかった……でも、あれだけの騒ぎを起こしたんだ、1人くらいとは接触できるはずさ」
沈黙したままの壁にグロリオはそっと手を触れた。
「なぁ、アキレア。俺たちは残らなきゃならない。ここで評議会に消されるわけにはいかないんだ。何としてでも連中に俺たちの実力を認めさせてやる……アイツが戻ってくる為にもこの隊は消されるわけにはいかねぇんだ……」
「……そうじゃないわ」
アキレアはそう呟くと、指先に灯る焔とその中に浮かぶ目玉を睨んだ。
「何があっても私たちは変わらない……この言葉だけで十分よ」




