八.約束②
糸は抗う気力を失ったイザベラに襲いかかった。
音を立てて固まっていく四肢をぼんやりと見つめる彼女の頭に再び映像が流れ込んできた。
***
『マリーラ』
ギルナードの声が響く。
イザベラハ?
彼はただ黙って埃を払うだけだった。
風景に小さな亀裂が入った。
場面が切り替わり、ギルナードと女が口論をしていた。
床にガラスの破片が散らばっている。
『何回も言わせないで、お父様! 私はこんなくだらない仕事を継がないって言っているの! どうせいつかは飽きられてしまうのに、作って、また壊れて、それを直して……この繰り返しばかり! こんながらくたの何が魅力ですって?!』
女はそう叫ぶと、部屋を飛び出していった。
部屋に残されたギルナードはしばらく石のようにその場に立ち尽くしていたが、椅子に倒れ込むように座って項垂れた。
黒い髪には白髪が目立ち、やつれた顔には皺が刻まれている。
突然、彼は激しく咳き込み始めた。
しばらくして発作が収まるとギルナードは立ち上がり、こちらへやってきた。
『マリーラ、最後まで一緒に居られなくて……ごめんな』
悲しそうな瞳が揺れた。
風景に入った亀裂が大きくなった。
ガチャ――
ドアノブを回す音に思わず胸が高鳴る。
ギルナードがこの部屋に来なくなって久しい。
ようやく会いに来てくれたのだ。
だが、部屋に入ってきたのはエプロン姿の2人の女だった。
『旦那様の部屋、ずいぶん綺麗になったわね』
『本当にね……寂しいわ』
『あとはここのものを片づけるだけよ。あら……』
ふと1人がこちらにやって来た。
『これ、どこかで?』
『あら、お嬢様のマリオネットじゃない。懐かしいわね』
『でも見てよ。服はボロボロだし、埃まみれだわ』
『そうね』
『どうしましょう? もうお嬢様には必要ないわよね? 汚いし、処分しましょ』
ヒツヨウ……ナイ……
亀裂に耐え切れなくなって、映像がまるで窓が割れるように崩れた。
***
再び景色が戻った。
我に返ったイザベラの目には涙が浮かんでいた。
「マリーラ、ごめんなさい……私は……何も考えていなかったのね、お父様の気持ちもあなたの気持ちも……」
真珠のような涙が床に落ちた。
今や、黄ばんだマリーラの顔は完全にひび割れ、その裂け目にも黒い糸が蠢いているのが見えた。
「もしあなたにまだ私の声が聞こえるなら……っ!」
ビキビキ――
言い終わらないうちに身体が音を立てて固まっていく。
力の抜けた彼女の腕からエリックが滑り落ちて繭の中に引きずりこまれた。
空を掴んでいた彼女の手に、待っていたと言わんばかりに糸が絡みつく。
マリーラはただそれを鈍く光る紅い瞳で見つめていた。
***
アイリスは思わず息を呑んだ。
「まさかチニ、契約主って……?!」
チニは弱弱しく頷いた。
「うん……マリーラだよ……」
持ち主に忘れられた寂しさが全ての発端だったのだろう。
だが、ザレジオに助長された負の感情は彼女だけでは抱えきれなくなってしまうほど肥大化し、内側から彼女そのものを破壊しようとしているのだ。
チニは途切れ途切れに言葉を続けた。
「多分……今回の子どもの失踪事件は……同じような感情を抱いていたおもちゃたちが……マリーラの感情に引き寄せられて起こしたことなんだと思う……」
「……なるほどな」
グロリオは伸びてきた糸を焼き払うと走り出した。
「マリーラ! よく思い出せ! これが本当に君のやりたかったことなのか?! 君の望んだことなのか?!」
「何をしているんですか、彼は?」
ザレジオは蔓の絡み合った身体を曲げて可笑しそうに声を上げた。
「あの狂気しか残っていないガラクタに声が届くとでも?」
「静かにしてくれないか」
ライオネルはそう言うと床に短剣を突き立てた。
ザレジオの眼前に押し寄せてきた糸の波が引いていった。
「あれがうちの隊長のやり方なんだ」
「貴方も随分とお人好しですね、この私を助けるとは」
「俺たちは天上人だ。その枠から出ることは決してない。お前を裁くのは天上人ではない。それだけのことさ」
「フン、知ったことではありませんよ。あなたたちがどんな信念をもっていようとね。どんなに邪魔をしようと、全てが私の脚本通りに進むことに変わりはないのですから。それに、彼女は喜んでいるはずですよ。誰にも相手にされず、小さな箱に閉じ込められて忘れ去られたままのあの子を大舞台の主役に抜擢してあげたのですから」
ライオネルは冷たい瞳を向けた。
「あくまでも善人に徹するつもりか」
「フフフフ……私は善人ですよ、最初からね」
「ならば、最後まで己の作った舞台を見ていると良い」
ライオネルは視線を再びグロリオに向けた。
背後からも糸が迫り、彼を呑み込もうとした。
「グロリオ!」
アキレアの悲鳴が部屋に響き、ザレジオはやれやれと首を振った。
「あれでも隊長ですか? むやみに突っ込めばこうなることは分かっていたはずだ。まずは自分の身を考えたらどうなんです?」
ライオネルは小さく笑い声を立てた。
「分かっているさ。だから、言っただろ? あれがうちの隊長のやり方だって……守らなきゃいけないものを見つけたらそれしか見えなくなる。自分のことなんて考えちゃいない」
ライオネルが言葉を切った瞬間、グロリオの上に覆い被さっていた糸が音を立てて凍りついた。
「戯けが」
背後の声にグロリオは振り返った。
「ハイド!」
「だから大変なのさ、俺たちは」
ライオネルは苦笑いを浮かべて言葉を続けた。
「あの隊長を守らなきゃいけないんでね」
「あら、こんな頼りない人を選んだ私たちにも責任はあるわよ」
ランジアは背後のライオネルをちらりと振り返った。
そして黒髪を掻き上げると、グロリオを一瞥した。
「あなたは前だけ見て進みなさい」
グロリオは、おう、と頷くと炭になった糸を踏んづけて部屋を走った。
「マリーラ! 良い加減に目を覚ませ! 君はイザベラさんやギルナードさんと、以前のように暮らせれば良かったはずだろ?! それなのに、皆を人形にして……他のおもちゃまで操って! 何か満足したのかよ?! これが本当にお前のしたかったことかよ?!」
マリーラのひび割れた唇を開いた。
「ダマレ! ワタシハ、ダレニモシタガワナイ! ジユウダ!」
「何が自由だ! 確かにお前を操る糸は無いかもしれねぇ! でも、考えてみろ! お前はザレジオの脚本に縛られ、その後ろの繭に操られているだけだろ?! それじゃぁ、ただの人形となんら変わらねぇよ!」
「……ロッ! ヤメロォォオッ!」
叫び声と共に、糸の波がうねりながら襲いかかってきた。
だが、グロリオは躊躇うことなくその中に飛び込んでいった。
「グロリオッ!」
一部始終を隊員たちの後ろで見ていたスラウは思わず身を乗り出した。
アイリスが安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ、スラウ。だから、隊長の指示を待ちましょう」
――『指示があるまで待て』
グロリオは加勢しようとしたスラウを止めてそう言った。
一体、いつ行けば良いというのだ?
スラウは歯がゆい気持ちで蠢く糸を見つめていた。
不意に糸の動きが止まった。
糸は大きく盛り上がると、空気を入れすぎた風船のように黒い破片を撒き散らしながら散っていった。
グロリオが焦げ付いた床の上に剣を突き立てていた。
もう一方のの腕でイザベラを抱えている。
その腕が鉄のように赤みを帯び、蒸気が立ち込めた。
蒸気は蝋化していたイザベラの身体をみるみるうちに溶かした。
「……っ!」
イザベラの長い睫毛が震えた。
「気づきましたか?」
グロリオ は囁くとそっと彼女を下ろした。
イザベラは繭に埋もれる人形を見上げた。
――『あなたが私のお友達になってくれるなら、私はあなたの1番の家族になってあげる! あなたが楽しい時は隣で一緒に笑うわ! 悲しい時は隣で一緒に涙を流す。だから約束よ。苦しい時、辛い時は助けを求めて』
幼い頃の自分の声が蘇った。
「……マリーラ」
イザベラは掠れた声で呟いた。
「ごめんね……お父様が亡くなって1番寂しかったのは、あなたでしょう? あなたはお父様の居ない世界が許せなかった。それで、皆をおもちゃにすればお父様も帰ってくるって思ったのよね?」
まるでイザベラの言葉の一文字たりとも聞き逃さまいとしているかのように全ての糸が動きを止めた。
「ナニヲシテイル?! メイレイヲキケ!」
繭から声が響いてきたが、糸もマリーラも動きを止めたままだった。
「……何で分かるの?」
人形のひび割れた唇から洩れる小さな鈴のような声にグロリオは思わず目を見張った。
これが彼女の本当の声なのか?
イザベラは涙で潤んだ瞳をマリーラに向けて微笑んだ。
「分かるわよ……だってあなたは私の大事な家族だもの」
その瞬間、マリーラの紅い瞳が透き通った緑色の瞳に戻った。
イザベラは人形のひび割れた頬を両手でそっと挟んだ。
「だから分かるわ。今、あなたがここに居る誰よりも苦しんでいるってことも」
布の裂けた頬を小さな滴が伝った。
「たす……けて……」
マリーラの声に応えるように、契約書が蒼く光り始めた。
光は人形と契約書、そして隊員たちを繋いだ。
「契約成立……マリーラ・ローク様。契約期間中、我々は貴殿をお守り致します」
グロリオの声に合わせて隊員たちが跪いた。
唖然としているザレジオを一瞥したライオネルは口元に笑みを浮かべた。
「お前の脚本には無い展開だろ? そろそろ閉幕の時間だ。そこで見ておけ。お前の安い脚本が崩れるのを」
その瞬間、繭が膨張してマリーラを中へ引きずり込もうとした。
「マリーラ!」
イザベラは叫ぶと人形に飛びついた。
繭はあっという間に彼女たちを呑み込んだ。
「今だ! 来い!」
グロリオが叫ぶやいなや、1つの影が床を這いずる糸の上を飛び越えた。
それを捕えようと盛り上がる糸に銀の矢が突き刺さり、次の瞬間には舞い上がった木の葉がそれを細かく刻んだ。
子どもに絡まる糸をほどいていたラナンは祈るように呟いた。
「上手くやれよ……スラウ!」
跳躍したスラウが手を掲げ、手が金色の光を纏い始めた。
***
「やり方を教えろ?」
サギリが首を傾げた。
「うん。気を集めて私に見合った武器を具現化する、って言われても、それだけじゃどうやるのか、さっぱり分からないよ」
「うーん、そうか……」
サギリは顎に手を当てて考え込んでいたが、ふと微笑むとスラウの頭を軽く叩いた。
「分からん」
「ふぇ?!」
「だって手を伸ばして……そこにある物を掴むのと同じだぞ、こんなの」
不満そうな顔のスラウにサギリは楽しそうに笑った。
「それだけ自然に力を使えってことだ」
***
自然に力を使う。
どれだけ考えても、やはり分からなかった。
だが、何となく分かったことがある。
スラウの手に灯る光が次第に棒状に集まり始めた。
「まさか、アレをここで身につけるの?!」
フォセが思わず声を上げた。
スラウは閉じていた目を開いた。
天上人になると決めた時、もう誰も死なせない、と心に誓った。
だから誰かが危ない目に合った時には真っ先に自分が助けなくてはいけない、そう無意識に義務づけていたのだ。
でも違った。
スラウはさっきより大きくなった黒い繭を見つめた。
きっとあの子もこんなことをしたかったわけではない。
ただ気づいてほしかったのだ、自分も家族だと。
彼女が欲しかったのは自分が主役の舞台ではない。
自分の言うことを聞かせられるおもちゃでもない。
ただ、自分を受け入れてくれる居場所が欲しかったのだ。
今はただ思う。
この人たちを、純粋にこの人たちの笑顔を守りたいと……
気づくと手には一振りの剣が握られていた。
柄も刃渡りもしっくりくる。
スラウは目の前に伸びてきた糸を薙ぎ払った。
剣が触れた瞬間に糸は光る粒となって消えていった。
スラウは大きく身体を反ると繭をめがけて剣を振り下ろした。
『浄化!』
繭に剣が突き刺さった瞬間、球体は風船が割れるような大きな音を立てて飛び散った。
部屋に広がった金色の光が触れた瞬間、部屋を埋め尽くしていた黒い糸は泡のように膨れ上がると、光を残して弾け飛んだ。




