五. 紅い月①
ガラスの割れる音に目を開けると、1組の男女が口論をしていた。
机の上には割れたコップの破片が散らばっていた。
女は男に何かを叫ぶと部屋を飛び出していった。
残された男はしばらく石のように立っていたが、椅子に倒れ込むように座ると頭を抱えて項垂れた。
しばらくして彼は立ち上がり、こちらへやってきた。
『―――』
男の口が動いている。
何を話しているのだろう……
じっと口元を見つめていると、最後の一言だけ分かった。
ごめんな……
悲しそうな瞳が揺れた。
***
「うっ……!」
グロリオはゆるゆると目を開けた。
視界がぼんやりとしている。
何だ、今のは……?
瞬きを繰り返すうちに意識がはっきりしてきた。
何もないがらんとした部屋を大きな窓から入る紅い光が照らしている。
「どこだ、ここ……?」
起き上がろうとして身体の違和感に気づいた。
体は床に横たわってはいないらしい。
肩が上に引っ張られている。
まるで上から吊られているかのように……
「え?!」
思わず上ずった声が出た。
手首や肘に細い糸が巻きついている。
首を回すと左右にアキレア、アイリス、ハイドが居た。
3人とも自分と同様に吊るされていて床に足がついていない。
「アキレア! 目を覚ませ!」
ピシ――
アキレアの肩に手を伸ばした時、手首が強く引っ張られた。
糸が褐色の手首に食い込む。
これ以上は手が伸ばせないようだ。
「ちっ……!」
舌打ちしたグロリオは試しに歩こうと足を踏み出してみた。
膝は思うように曲がらず、その場で身体が左右に揺れるだけだった。
「おい! 起きろ! お前ら!」
グロリオの呼びかけに徐々に3人が目を覚ました。
「ん……え?! なっ、何これ?!」
アキレアが身体を動かそうとしてもがいた。
「クスクス……」
笑い声がしたかと思うと、先の広がる青いフリルのドレスに身を包んだ少女が器用に糸を伝ってするすると降りてきた。
肩まである黒い巻き髪に、透き通るような緑色の瞳。
だが、瞳はどこか虚ろを見つめて口元は笑みを湛えたまま、固まっている。
「ヨウコソ」
少女の口から感情のない声が飛び出した。
「お前、一体何者だ?」
グロリオが尋ねた時、アイリスが声を上げた。
「見て、あそこ!」
4人の前にも同じように女性が吊るされていた。
薄桃色のワンピースに身を包み、目の前にいる少女と同じ巻き髪が白い顔に垂れている。
「人形か?」
呟くグロリオに少女は金属の擦れ合うような笑い声を上げた。
「チガウ。イザベラ・ローク」
「あれ、どう見ても人形だぞ?! イザベラさんなわけが……!」
「ありえるかもしれないわ。さっきの執事も人形に変えられていたのだとしたら?」
「嘘だろ?! イザベラさん、聞こえますか?! イザベラさん!」
グロリオの声が空しく響いた。
今すぐにでも走り出したかったが、うまく動けない。
必死の呼びかけにも関わらず、彼女の血の気の失せた頬はぴくりとも動かなかった。
「ムダムダ。アレハ、ワタシノオニンギョウ」
少女の空虚な瞳がグロリオを見つめた。
「なっ、何言ってんだ、お前?!」
グロリオは思わず目を見開いた。
「クスクス……」
少女の唇の間から再び固い笑い声が漏れた。
「ワタシトアソンデヨ」
少女の言葉と共に、部屋中に張られた糸が音を立てて震え始めた。
「来る」
ハイドの声が聞こえた。
グロリオにもただならぬ気配が感じられた。
だが……
「う、嘘?!」
アキレアが声を上げた。
彼らの前に新たに現れたのは、淡い水色のワンピースに身を包んだ少女だった。
肩までの緩いカールがかかった金髪を束ねる水色の太いバンドに縫いつけられた水晶が、紅い光をはね返している。
くるりとした大きな茶色の瞳は瞬き1つせず、こちらを見つめている。
放たれる殺気だけで気圧されそうだ……
彼女は口元に微笑みを浮かべたまま両腕を広げた。
部屋の空気に流れが生まれ、彼女の手のひらに集まっていく。
「おいおい、嘘だろ? フォセ……」
グロリオの声は、突如巻き起こった風に呑み込まれた。




