第5話:【激怒】死の迷宮突破の真実、ただの「バリアフリー改修工事」だった!?
「さぁ、皆さん! ページをめくってください! いよいよ歴史の授業は、新たな局面に突入します!」
広大な大教室に、熱血教師の張りのある声が反響した。
先生は仕立ての良いフロックコートの裾を翻し、教壇の端から端までを大股で歩き回りながら、黒板に大きく『魔王城への進軍』と書き殴った。
力のこもった筆致からチョークの粉が雪のように舞い散るが、本人は全く気にする様子もない。
むしろその粉を浴びて、どこか神々しさすら漂わせている。
「アステリア平原にて、十万もの魔王軍主力部隊を『無血降伏』させたカイト様と三人の仲間たち。彼らはいよいよ、諸悪の根源たる魔王が座す本拠地、魔王城へと足を踏み入れます!」
教室中の空気が、ピンと張り詰めた。
何十人もの生徒たちがごくりと唾を飲み込み、一斉に真新しい教科書のページをめくる。
そこには、赤黒いマグマの海に囲まれ、天を突くようにそびえ立つ禍々しい黒曜石の城の挿絵が描かれていた。
空は常に暗雲に覆われ、毒々しい紫色の雷鳴が轟いている。
ページを開いただけでも、血と絶望の匂いが漂ってきそうな威容だった。
「魔王城……それは、当時の魔界の技術と呪術の粋を集めた、まさに難攻不落の絶対絶命要塞です!」
先生は教壇から身を乗り出し、声を潜めて語りかける。まるで怪談話でもするかのような、緊迫感のあるトーンだ。
「侵入者を拒むための『死の罠』が、城内の至る所に仕掛けられていました。
一歩足を踏み外せば奈落の底へ真っ逆さまに落ちる『無限の絶望階段』。
歩みを進めるだけで、突如として壁から無数の槍が飛び出してくる『串刺しの回廊』。
普通の人間であれば、玄関ホールを抜けることすらできず、無惨に命を散らしていたでしょう。
まさに、血塗られた死の迷宮です!」
最前列の女生徒たちが「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、肩を寄せ合った。
無理もない。
教科書に詳細に記されている魔王城の構造は、あまりにも凶悪だ。
純粋な武力や魔法の力だけでなく、こういった卑劣で残酷な罠の数々が、人類の侵攻を何百年も阻んできたのである。
英雄たちがいかにしてこの死地を潜り抜けたのか、生徒たちの目は期待と恐怖でキラキラと輝いていた。
――ただ一人、最後列の席で顔面を蒼白にしている俺を除いて。
(いやいやいやいや……待て待て待て待て)
俺は机の下で、分厚い教科書の陰に隠すようにして、例の『真っ黒な手記』のページをめくっていた。
黒革の表紙はひび割れ、得体の知れない負のオーラを放っている薄気味悪い手帳。
大英雄カイト本人が残した、魔法も奇跡も存在しない、血も涙もない「大人の裏帳簿」だ。
俺は震える指で、魔王城突入の日の日記をなぞった。
そこには、死の罠に対する恐怖など微塵もなく、ただただ強烈な【現代ビジネスマンとしての激怒】が、力強い文字で書き殴られていた。
『〇月〇日。ついに敵の親会社……もとい、魔王軍の本拠地に乗り込んだ。
しかし、玄関ホールを抜けて中に入った瞬間、僕は怒りで視界が真っ赤に染まるのを感じた。
なんだこの、ふざけ腐った建物は。
経営者の顔が見てみたい』
(おっ、やっぱり罠がエグすぎてキレたのか?)
俺が少しだけ期待して続きを読むと、手記は俺の予想の斜め上を光の速さで駆け抜けていった。
『まず、「無限の絶望階段」とかいう大階段。
手すりが一切設置されていない。
しかも傾斜角が四十五度を超えており、建築基準法を完全に無視している。
床材も無駄にツルツル滑る大理石だ。
こんな滑る階段を、魔族の社員たちは毎日上り下りして通勤しているのか?
薄暗くて足元も見えないし、職場の照度基準(最低一五〇ルクス)も満たしていない。
転落事故の発生率と労災のリスクを考えたことがあるのか?
雨の日に濡れた靴で登らされる一般兵の身にもなってみろ』
(……そっち!?)
俺は思わず、声に出してツッコミそうになった。
違う。
おじさんがキレているのは「侵入者を殺すための罠」に対してじゃない。
魔王城の設備が引き起こす「社員の労働災害リスク」に対してブチギレているのだ。
手記の筆圧は、ページが進むごとに強くなり、怒りの激しさを物語っている。
『さらに許せないのが「串刺しの回廊」とかいう廊下だ。
なぜか一定間隔で、壁から致死性の槍がビュンビュン飛び出してくる。
アホか。
百歩譲って防犯用だとしても、社員の日常的な動線上に致死性のギミックを常設する企業がどこにある。
タイムカードを押すために、毎朝槍を避けながら命がけで出社している魔族の一般兵たちを想像して、僕は涙が出そうになった。
魔王軍の人事部と労災認定の基準はどうなっているんだ。
完全に労働安全衛生法違反だ』
(いや、防衛設備だよ! お城の防衛設備!! なんで『毎朝の通勤ルート』として査定しちゃってんの!?)
俺の胃がキリキリと痛み始めたが、おじさんの【コンプライアンス意識】はもはや誰にも止められない領域に達していた。
『極めつけは「煉獄の渡り廊下」だ。
溶岩流の上に架かった幅の狭い橋なのに、転落防止用の安全柵(高さ九十センチ以上)がどこにも設置されていない。
ちょっと書類を落として拾おうとしただけで全焼死だぞ。
有毒ガスも充満しているし、換気設備もゼロだ。
魔王という経営者は、従業員の命をなんだと思っているんだ。
こんな劣悪極まりない労働環境で働かされている魔族たちが不憫でならない』
手記を握る俺の手が小刻みに震える。
なんだこれは。
これは「勇者の壮絶な冒険録」じゃない。
完全に「ブラック企業に立ち入り検査に入った労働基準監督署のブチギレ報告書」だ。
「皆さん、想像してみてください!」
教壇の上で、先生が両手を強く握りしめ、熱い吐息を漏らす。
「カイト様は、迫り来る罠の前で立ち止まり、こう叫んだと言われています!
『この忌まわしき悪意の数々……私がすべて打ち砕く! これ以上、罪なき者たちの血が流れるのを黙って見ているわけにはいかない!』と!
自らの身の危険を顧みず、ただ前だけを見据えるその勇姿!
これぞ本物の英雄です!」
(違う! それ絶対「こんなクソみたいな労働環境、今すぐ俺が是正してやる!」っていう、ブチギレた現場監督の叫びだろ!!)
俺の心の中のツッコミをよそに、手記はさらなる衝撃の展開を迎えていた。
英雄たちの「偉大なる進軍」の真実が、容赦なく暴かれていく。
『魔王を倒す倒さないの前に、まずはこの劣悪な職場環境を根本から改善しなければならない。
放っておけば、僕が労災で死ぬ。
僕は聖剣をインベントリにしまい、代わりに王都のホームセンター(鍛冶屋)で特注しておいた巨大なスレッジハンマー(※解体工事用)を取り出した。
そして、社員の通行の完全な邪魔になっている壁の槍射出装置を、端から順に物理的にすべて叩き壊し、撤去した。
壁には「危険箇所改修済み」のテープを貼っておいた』
(うわぁ……神聖なオーラで粉砕したんじゃなくて、ガチの解体工事が始まっちゃったよ……)
『続いて「無限の絶望階段」だ。
ここは剣聖に命じて、伝説の魔剣で階段の石材を安全な角度になるよう削り直させ、滑り止めの溝を掘らせた。
さらに、持参した鋼鉄のパイプを壁に打ち込み、手すりをしっかりとボルトで固定した。
これで雨の日も安心だ。
極めつけの「煉獄の渡り廊下」は、聖女と賢者をフル稼働させた。
賢者の土魔法で基礎を固めさせ、聖女の防壁魔法を応用した頑丈な防護フェンス(耐熱仕様・高さ一・二メートル)を設置。
よし。
これでようやく、最低限の安全基準を満たした職場(バリアフリー魔王城)になったと言えるだろう』
(ただの凄腕リフォーム業者じゃねぇか!!!!)
俺は机に突っ伏して、声なき絶叫を上げた。
数百年もの間、人類の侵攻を阻み続けてきた血塗られた死の迷宮が、たった数時間で「手すり付きの安全で人に優しい職場」へと劇的ビフォーアフターを遂げてしまったのだ。
剣聖の無駄遣いにも程がある。
『改修工事を終えて一息ついていると、巡回にきた魔王軍の重武装した警備兵たちと鉢合わせた。
いよいよ戦闘になるかと思い、ハンマーを構え直したが、彼らの様子がおかしい。
警備兵たちは、槍が飛び出さなくなった安全な廊下と、手すりが完備された階段、そして立派な防護柵が設置された溶岩の橋を見て、武器をその場に放り出し、ガクッと膝から崩れ落ちたのだ。
「これでもう……毎朝命懸けでタイムカードを押しに行かなくていいんだ……!」
「トイレに行く途中で、同僚が溶岩に落ちるのを見なくて済むんだ……!」
「手すりがある……! 階段に手すりがあるぞぉぉっ!!」
大の大人の魔族たちが、ボロボロと大粒の涙を流して号泣していた。
かわいそうに。
どれだけブラックな環境で働かされていたんだ。
僕は彼らの肩を優しく叩き、「よく今まで耐えたな。あとは僕に任せろ。必ず労働環境を是正してやる」と伝えた。彼らは僕を神のように拝み、先を争って城の案内役を買って出た』
「…………」
俺は、あまりの事態に思考が停止し、ゆっくりと手記を閉じた。
城の防衛部隊が突破された理由は、「英雄の圧倒的な力に恐怖したから」ではない。
「長年の職場環境への不満を、外部の人間がアッサリ解消してくれたから」だ。
カイトのおじさんは魔王城に「攻略」に行ったのではない。
劣悪な職場環境を視察しに来た【労働基準監督官】だったのだ。
しかも即日改修付きの。
「カイト様の圧倒的な力とカリスマの前に、魔王軍の凶悪な魔物たちすらも完全に戦意を喪失し、ひれ伏したと言われています!」
現実の教室では、先生の熱弁がいよいよ最高潮に達していた。黒板を叩く手にも熱が入る。
「武力による制圧だけでなく、その高潔な魂と慈愛のオーラに、魔族すらも感銘を受けた!
これこそが、カイト様が歴史上最高の英雄と呼ばれる所以なのです!
さぁ皆さん、この素晴らしいエピソードから、我々は何を学ぶべきでしょうか!」
最前列の生徒が「はい!」と勢いよく手を挙げる。
「どんな困難な障壁があっても、決して諦めず、自らの信念と力で切り開く勇気を持つべきだと思います!
そして、敵すらも包み込む大きな愛を持つことです!」
「素晴らしい回答です! まさにその通り!」
パチパチパチパチ!
と、教室中が感動の嵐と拍手に包まれる。窓から差し込む光が、涙ぐむ生徒たちの顔を美しく照らしていた。
(……いや、学ぶべきは『従業員の安全を守るための適切な設備投資』と『コンプライアンスの徹底』だろ。
愛とか勇気とかじゃなくて、福利厚生に負けただけだからなアイツら)
一人冷や汗を流しながら、俺は深く、ひたすらに深い深呼吸をした。
歴史の真実は、いつだって残酷なまでに現実的だ。
「さぁ、これで玄関ホールから続く罠のエリアの解説は終了です!」
先生が黒板消しを手に取り、嬉々として『魔王城への進軍』の文字を消し去っていく。
「安全を確保したカイト様たちは、いよいよ魔王城の深部へと足を踏み入れます!
そこで彼らを待ち受けていたのは、魔王軍の最高幹部……
最強の力を持つ『四天王』たちとの激突です!」
教室の空気が、再び極度の緊張感に包まれる。
俺は顔を引きつらせながら、再び真っ黒な手記に手を伸ばした。
下っ端の兵士たちを「労働環境の改善」で寝返らせたカイトのおじさんが、魔王軍の最高幹部(中間管理職)たちに対して、ただの物理的な戦闘で終わらせるはずがない。
この「情熱的なファンタジー」と「冷徹なビジネス」の壮絶な殴り合いは、魔王城の奥深くに進むにつれて、ますますド黒く激化していくことになりそうだった――。




