第20話:【神格化】唯一監査できなかった穴、その正体は「英雄という物語」だった!?
「皆様。前回、カイト様は完璧な引き継ぎを終え、定時で帰られました」
歴史学大教室。先生は今日、教材を何も持たずに教壇に立っていた。
「引き継がれた王国は、どうなったと思いますか? 混乱した? 崩壊した? ……いいえ。王国は、完璧に回り続けました。七つの委員会は機能し、十二人の後任監査官は職務を全うし、書類は一枚も滞りませんでした。カイト様の引き継ぎは、完璧だったのです」
先生は、そこで言葉を切った。
「システムは、何一つ崩壊しなかった。……崩壊したのは、人々の心のほうでした」
『〇月〇日。晴れ。パンを焼いた。膨らまなかった。原因を分析したい衝動を抑え、そのまま食べた。まずかった。それでよかった。』
俺は膝の上の手記に目を落とした。退職後のページは、まるで別人が書いたようだった。パンの話、畑の話、隣人の話。国境近くの小さな村で、おじさんはただの「よく気のつく変な移住者」として暮らし始めていた。
「人々は、受け入れられなかったのです。山を消し、魔王を詰ませ、国を作り直した超越者が――『ただ、定時で帰っただけ』だなんて。そんな結末は、物語として、あまりにも物足りなかった」
先生は静かに続けた。
「そして……その『物足りなさ』に、目をつけた男がいました」
先生が黒板に、新しい名前を書いた。
『聖アルヴィス』
「カイト様が姿を消されてから約三十年後。王都に、白銀の髪の語り部が現れます。彼は各地の広場で救世主の奇跡を語り、人々を涙させ、やがて『救世主信仰』を一つの教団へとまとめ上げました。歴史が『聖伝の編纂者・聖アルヴィス』と呼ぶ、救世主信仰の父です」
生徒たちが感嘆の息を漏らす中、俺は手記のページをめくった。
『〇月〇日。王都で「救世主様の御業を語る集い」が流行していると聞き、様子を見に行った。』
『広場の中央で、白銀の髪の老人が僕の伝説を朗々と語っていた。聴衆は涙を流し、壇上では病の癒えた少女が「救世主様の御加護です」と証言し、献金箱には金貨の雨が降っていた。』
『……この演出の呼吸を、僕は知っている。感動の波の作り方。証言者を置く位置。涙から献金への、なめらかな導線。』
『壇上の老人と、目が合った。』
『彼は――笑った。』
(……嘘、だろ)
俺は、ページを繰る指が止まった。
白銀の語り部。大衆の感情を設計し、涙と熱狂を金に変える天才。三十年前、真実の暴露によって王都を追われた、あの男。
「聖アルヴィスは、三つの偉大な事業を成し遂げました」
先生が黒板に、三つの単語を書いていく。
「一つ、カイト様の遺された全三百二十巻の引き継ぎ書を『聖典・大典』として奉ること。二つ、大典に刻まれた『ルールの自動失効』を、神の言葉への冒涜として永久凍結すること。三つ、『例外申請』の制度を、神の定めに例外なしとして廃止すること」
(あ……ああ……)
俺は、声にならない声を漏らした。
おじさんが最後の仕事で檻の鉄格子に開けた隙間――余白。それが、埋められていく。偶然でも、善意の暴走でもない。**設計されて**、埋められていく。
『〇月〇日。旅の老人に扮して、教団の本部を訪ねた。』
『聖アルヴィス――ガウェインは、人払いを済ませると、三十年ぶりに僕の役職名を呼んだ。』
『「お久しぶりです、特任監査官殿。ずいぶんお探ししましたよ。……ああ、ご安心を。今回の私は、隅から隅まで合法です」』
『彼の言う通りだった。壇上にサクラはいない。少女の病が治ったのは事実だ――僕が昔整備した公衆衛生と医療制度のおかげで。彼の語る奇跡には、嘘が一つもない。事実を、神話の額縁に入れて語っているだけだ。優良誤認にすら、ならない。』
『「三十年前、あなたは私を『真実』で炎上させて殺した。だから私は、あなたを『真実』で崇拝させて殺します。完璧な神になったあなたを、もう誰も、疲れた一人の人間としては思い出せない」』
『「名乗り出ますか? 数百年生きた男の登場ほど、上等な奇跡の証明はない。私を訴えますか? 罪状が一つもない。では、放置しますか? 信仰は、勝手に育ちますよ」』
『「……さあ、どうします、監査官殿。拍手と賞賛は、あなたの法律では裁けない」』
『僕は、何も言えなかった。』
『彼は僕の教え子だ。最悪の意味で。法の内側に立ったまま相手の急所を刺す方法を、この国で一番派手に実演してみせたのは、僕自身なのだから。』
俺は、手記を持つ手が震えるのを感じた。
剣でも、毒でもない。**拍手で殺す**。批判は法で防げても、賞賛を拒む方法はこの世に存在しない。おじさんを打ち倒せなかった男は、おじさんを完璧に持ち上げることで、「人間カイト」を歴史から消しにきたのだ。
『考え得るすべての選択肢を検討した。』
『名乗り出れば、神話の燃料になる。潰しに動けば、「引退した英雄が後進の信仰に嫉妬した」という、より醜悪な物語になる。そして僕が動けば動くほど、「やはりカイト様がいなければ」となり、僕の引き継ぎは失敗する。』
『皮肉なものだ。神を騙って富を吸い上げていた女を逮捕したのは、この僕だ。それなのに、空になった神の椅子に、今度は僕が座らされようとしている。しかも今回は、座らせる側に一片の違法性もない。』
『排除措置命令は、物語には出せない。』
「聖アルヴィスは天寿を全うし、国葬をもって送られました」
先生の声は、怒っているような、悲しんでいるような、不思議な響きをしていた。
「そして皆様、ここが重要です。教団の開祖が没した後も……信仰は、少しも衰えなかった。むしろ、より純粋に、より強固になっていったのです。もはや扇動する者は要りません。人々自身が、その物語を必要としていたからです」
『〇月〇日。ガウェインが死んだ。』
『だが、彼の作った物語は死ななかった。物語は、作者より長生きする。』
『逮捕できる人間は、もういない。監査すべき相手は、もう組織ですらない。それは人々の心の中にいて、日に日に育っている。』
『組織の不正なら、監査できる。契約の穴なら、法で塞げる。だが、「人々が信じたい物語」だけは、どんな権限でも、どんなロジックでも、監査できない。』
(……これが、最後の穴)
最強の監査官が生涯でたった一つ、手も足も出なかった相手。それは魔王でも、女神でも、宿敵ガウェインですらなく――彼が遺していった「英雄という物語」そのものだった。
「では、カイト様は諦めたのでしょうか?」
先生が、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。彼は監査官です。指摘できない不備を見つけたとき、監査官がやることは一つ。……『記録を残す』ことです。いつか、然るべき者が、然るべき時に、指摘できるように」
『〇月〇日。決めた。手記を書き直し、一冊にまとめる。』
『教科書に載る美しい歴史ではなく、トイレと石鹸と残業の記録を。神ではなく、定時で帰りたかっただけの一人の男の記録を。』
『これは告発文ではない。時限式の監査調書だ。』
『ガウェインは正しかった。物語は、法律より強い。ならば結論は一つだ。物語には、物語をぶつけるしかない。』
『いつかこの国が、聖典と化したルールで身動きが取れなくなったとき。誰かがこれを読んで、笑って、思い出せばいい。ルールは神が下したものではなく、疲れた人間が「明日ちょっと楽になるように」と作ったものだと。だから、疲れた人間の手で、いくらでも作り直していいのだと。』
授業終了の鐘が鳴った。
だが、誰も席を立たなかった。先生が、まだ話し終えていなかったからだ。
「――この手記が、その後どこへ行ったのか。公式な記録はありません。ただ、一つだけ確かなことがあります」
先生は教壇を降り、ゆっくりと通路を歩き始めた。
「監査調書というものはね、皆さん。適切な読み手の手に渡るように、適切な場所に保管されるものなんですよ。たとえば……そう。読み手が必ず通りかかる、学校の古い倉庫、とかね」
先生の足が、俺の机の横で止まった。
教室中の視線が集まる。心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
「本日はここまで。皆様、また来週。……ああ、君は少し残りなさい。『提出物』の件で話があります」
――生徒たちが全員出ていった後の、静かな大教室。
夕陽の差し込む教壇の前で、俺は手記を机の上に置いた。もう、隠す意味がないことは分かっていた。
「……いつから、気づいてたんですか。俺がこれを持ってるって」
「気づくも何も」
先生は眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉んだ。その仕草が、授業中の絶叫キャラとはまるで別人で。
「僕が置いたんだ。君が掃除当番になる日を調べてね。……まったく、見つけるまでに三回もかかった。君は掃除をサボりすぎだ。労務管理がなっていない」
「は……? え、置いたって……調べたって……」
「自己紹介がまだだったね」
先生は姿勢を正すと、俺の目をまっすぐに見て、言った。
「カイト・サカザキ。元・特任監査官。現在は再雇用の嘱託職員として、歴史を教えている。……ひいひいひい、ええと、面倒だから省略するが。君の、おじいちゃんだ」
「…………」
「異世界召喚の副作用らしくてね。老化が、致命的に遅い。退職したのに、寿命という納期が一向に来ない。困ったものだよ」
俺は、言葉が出なかった。
聞きたいことが多すぎて、渋滞して、結局一番どうでもいい質問が口から転がり出た。
「……じゃあ、なんで、あんな……ガウェインの作った神話を、あんな全力の絶叫で教えてたんですか。自分を消しにきた男の脚本を、自分で」
「決まっているだろう」
先生は――カイトのおじさんは、心外だという顔で眼鏡をかけ直した。
「教科書の内容を教えるのが、教師の業務ルールだからだ。僕はルールは守る主義でね。……ただし」
おじさんは、机の上の手記を、とんとん、と指で叩いた。
「ルールのどこにも、『放課後に、身内へ本当の話をしてはいけない』とは書いていない。……穴というのはね、そうやって使うものだ」
夕陽の中で、数百年前に定時で帰ったはずのおじさんが、初めて、少しだけ笑った。
「さて。監査の引き継ぎを始めよう。……最終ページを開きなさい。ガウェインとの三百年越しの勝負に、決着をつけてもらう」




