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第19話:【退職】伝説の英雄、最後の大仕事は「自分をクビにする引き継ぎ」だった!?

歴史学大教室。


先生は今日、教壇に一枚の紙を置いていた。


遠目にも分かる。それは、王国公文書館に現存するという、あの有名な文書の複製――。


「皆様。本日はまず、こちらをご覧いただきましょう。王国史上、最も多くの涙を流させたと言われる歴史的文書……カイト様ご自身による、ご自身への『監査報告書』です!」


先生が教鞭で、報告書の「指摘事項」の欄を指し示す。


「『重大な指摘事項:本王国の全業務が、職員一名に過度に依存している(属人化)。当該職員が不在となった場合、王国の主要機能はおおむね一日で停止する』! ……そして問題は、その下です! 『改善措置』の欄に、カイト様はたった一行、こう書かれました!」


先生は一呼吸置き、大教室を見渡してから、静かに読み上げた。


「『当該職員を、本王国のすべての業務から除外する』――」


教室が、しんと静まり返る。


「つまり! 世界を救った伝説の救世主が、自分で自分に下した処分は……『クビ』だったのです!!」


「「「ええええええっ!?」」」


「自分をクビにするって何!?」「え、辞めちゃうの!?」「国が止まるって前回やったじゃん!」


騒然とする教室で、俺は膝の上の手記を開いた。


『〇月〇日。監査報告書を起案した。改善措置は決まっている。僕という単一障害点の除去。つまり退職だ。』


『だが、ここで辞表を叩きつけて消えるのは三流のやることだ。引き継ぎもせずに辞める人間を、僕は元の世界で一番軽蔑していた。辞めた後に現場が崩壊するのは、辞め方が悪いからだ。』


『よって、本日より最終業務を開始する。業務名:「カイト・サカザキの完全な引き継ぎ」。納期は一年。』


『この世界に来て初めて、少しだけやる気が出ている自分が腹立たしい。』


「そう! カイト様は消える前に、王国史上最大にして最後のプロジェクトを立ち上げました! その名も『完全引き継ぎ計画』!!」


先生の熱量が、一気に跳ね上がる。


「まずカイト様が行ったのは、ご自身の頭の中の完全な文書化です! 決裁の判断基準、監査の着眼点、トラブル対応の手順……あらゆる暗黙知を書き出した引き継ぎ書は、最終的に全三百二十巻! 現在、王立図書館の最深部に『大典』として収蔵されているアレです!」


「あれ引き継ぎ書だったのかよ!?」「聖典って習ったぞ!」「三百二十巻の引き継ぎ書、後任泣くだろ」


『〇月〇日。引き継ぎ書の執筆と並行して、決裁権限の分散を進めている。』


『僕に集中していた承認権限を、分野ごとに七つの委員会へ分割した。一人の天才より、七人の凡人の合議のほうが暴走しない。僕という前例が、その証明だ。』


『後任の監査官候補は十二人育成中。全員、僕より優秀ではない。それでいい。「優秀すぎる一人」こそが、この国を停止寸前まで追い込んだ欠陥部品なのだから。』


(権限を、わざと凡人に分ける……)


俺は手記の文字を目で追いながら、静かに息を呑んだ。


最強であることをやめる。誰にでもできる形に、自分を分解していく。それは、あの最強のおじさんにとって、どんな気分だったんだろう。


「しかし皆様! カイト様の引き継ぎで、本当に恐ろしいのはここからです!」


先生が黒板に、大きく『余白』と書いた。


「カイト様は、ご自身が生涯をかけて作り上げたルールの数々に……なんと、『寿命』を設定したのです!」


『〇月〇日。全規則に「自動失効日」を組み込んだ。』


『どんなルールも、十年経てば自動的に効力を失う。延長したければ、そのときの現場の人間が「まだ必要だ」と合意しなければならない。』


『ルールは作った瞬間から腐り始める。バグラムの一件で骨身に染みた。僕が塞いだ穴は、時代が変われば別の搾取の入り口になる。僕がいなくなった後、誰も僕のルールの尻拭いをしなくて済むように、ルール自身に死んでもらう仕組みが要る。』


『あわせて「例外申請」の制度も作った。現場の判断でルールを破っていい。ただし事後報告すること。……ルールより、現場のほうが正しいことは、いくらでもある。』


俺は、手記のページを持ったまま、動けなくなった。


――カイトのおじさんがルールを追加するたびに、この世界から「遊び(余白)」が消えていく。


前の章を読みながら、俺がずっと感じていた息苦しさ。


おじさんは、ちゃんと気づいていた。気づいて、最後の仕事で、自分の作った檻の鉄格子に、自分の手で隙間を作っていったんだ。


『〇月〇日。個人資産の整理も済ませた。魔王逮捕の後、僕の法人が1ゴールドで買収していた株式会社魔王(旧・魔王軍)の全株式は、従業員持株会へ譲渡した。譲渡額は、購入時と同じ1ゴールド。損益ゼロ。我ながら堅実な資産運用だった。』


『あの会社はもう、僕がいなくても回る。それが確認できただけで、十分な配当だ。』


「そして、引き継ぎ開始から一年後……運命の最終出社日がやってきます」


先生の声が、ふっと柔らかくなった。


「この日、カイト様の卓上に残った未決裁の書類は、たった一枚でした。王国のあらゆる書類を裁いてきたカイト様が、唯一、自分では承認できなかった書類……なんだか分かりますか?」


生徒たちが顔を見合わせる中、先生は静かに答えを言った。


「ご自身の、『退職届』です」


『〇月〇日。最終出社日。』


『退職届の承認者欄が空欄のままだった。考えてみれば当然だ。僕の上司は、この国に一人しかいない。』


『謁見の間で王に退職届を差し出したら、王は受け取ったまま四半刻も泣き続け、一向に印を捺さない。「せめて像を建てさせてくれ」「祝日を作らせてくれ」「大聖堂にあなたの名を」と言うので、全部却下した。像の維持管理費、祝日による生産性低下、命名による神格化リスク。理由を並べたら、王はもっと泣いた。』


『最後に王は、震える手で印を捺しながら、こう言った。「あなたは、この国に何を遺していくのですか」と。』


『僕は答えた。「僕がいなくても回る国を遺します。それが僕の、最初で最後の成果物です」』


教室のあちこちから、鼻をすする音が聞こえた。


先生も、眼鏡の奥の目を細めて、複製の報告書をそっと撫でている。


「こうして、すべての引き継ぎを終えたカイト様は、七つの称号と、勲章と、領地と、年金と、その他もろもろの特権のすべてを王国に返上し……執務室の鍵を、後任に手渡しました」


俺は、手記の次のページをめくった。


そこには、これまでの疲れ切った文字とはまるで違う、不思議なほど穏やかな筆致で、短い文章が記されていた。


『〇月〇日。晴れ。』


『引き継ぎ、完了。積み残しのタスク、なし。未決裁の書類、なし。明日の業務、なし。』


『最後に、いつもの一言を書いておく。この手記に何百回と書いてきた、ただの業務終了の合図だ。だが今日だけは、意味が違う。今日の「定時」の先には、もう月曜日が来ない。』


『今日も、定時で帰る。』


その一行の下は、余白だった。


インクの染みも、疲れた筆圧も、業務報告も、何もない。ただ、白い余白がページの終わりまで続いていた。


ギルドの監査あたりから、ぷっつりと途絶えていた、いつもの一言。あんなに不気味だったその不在が、最後の最後に、一番穏やかな形で戻ってきていた。


俺は気づいたら、目の奥が熱くなっていた。


数百年前のおじさんが、たったこれだけの一行を書くために、山を消して、魔王を詰ませて、国を丸ごと作り直したのだと思うと――笑えばいいのか泣けばいいのか、分からなかった。


「執務室を出たカイト様が、その後どこへ向かったのか。公式な記録は、一切残っていません」


先生が、黒板の『崩壊と継承』の文字の前に立つ。


「王国の歴史書は、この日をもってこう記します。『救世主カイト・サカザキ、天に還る』と。……ですが皆様、よく考えてみてください。神に還られては、困る人たちがいたのです」


先生の目が、すっと冷たくなった。


「引き継がれた制度よりも、『カイト様が見ていてくださる』という物語のほうが、都合のいい人たちが」


授業終了の鐘が鳴る。


「次回、『神格化』。ただ定時で帰っただけのおじさんが、いかにして神になってしまったのか。……カイト様が生涯で唯一、監査できなかった穴のお話です」


生徒たちが席を立つ中、俺は白い余白のページに、そっと指を置いた。


おじさんは、ちゃんと帰れたんだ。


なのに――どうしてこの手記は、俺の手元にあるんだろう。


天に還ったはずの人の手記が、なぜ、学校の古い倉庫なんかに。


その答えを知っているはずの先生は、もう教室にいなかった。



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