終章:最後の監査報告書
夕陽の差し込む、放課後の大教室。
俺は言われるがまま、手記の最終ページを開いた。
そこにあったのは、前から気になっていた、あの「黒塗りのページ」だった。
一面、インクで塗り潰された黒。そのさらに次のページからは、何も書かれていない白紙が、表紙の裏まで続いている。
「……ここ、何が書いてあったんですか。誰かに消されたんじゃ」
「僕が塗った」
カイトのおじさんは、あっさりと言った。
「そこには元々、僕が書いた『結論』があった。この国の歴史という穴に対する、指摘事項と改善措置。……書き上げてから、全部塗り潰した」
「なんで」
「監査の初歩だよ」
おじさんは教壇に腰を預け、腕を組んだ。
「監査報告書の結論はね、監査対象の当事者が書いてはいけないんだ。僕は『英雄カイト』の当事者だ。神格化された本人が『私は神ではない』と結論を書いたところで、それは謙遜という名の、新しい神話の一ページになるだけだ。……現に一度、書いてみて分かった。塗り潰しながら、我ながらひどい文章だと思ったよ。恨み言と、言い訳と、自己弁護。当事者の限界だ」
「じゃあ、誰が書くんですか。その結論」
「独立した立場の、次の監査人だ」
おじさんは、まっすぐに俺を指差した。
「数百年後に生まれて、僕への信仰も、僕への恩義もなく、教科書の記述と手記の記述を両方読み比べた上で、『どちらの歴史にも息苦しさを感じている』人間。……適任者の要件を満たすのが、君しかいなかった」
「……じゃあ、序文は。最初のほうのページが破り取られてたのも、あなたですか」
「よく気づいたね」
おじさんは懐から、四つ折りにされた古い羊皮紙を取り出し、机の上にそっと置いた。破れた根本の形が、手記の毛羽立ちとぴったり一致する。あの、破り取られた序文だった。
「序文には、この手記の『宛名』と『目的』が書いてあった。先にそれを読ませてしまったら、君は最初から結論ありきで読むことになる。監査人に予断を与える資料は、監査が終わるまで渡さない。それだけの話だ」
俺は震える指で、古い折り目を開いた。
疲れた文字で、しかし一字一字、丁寧にこう書かれていた。
『この記録を、いつか僕の血筋に生まれ、教科書の歴史に息苦しさを覚えた誰かへ。』
『笑いながら読んでくれて構わない。むしろ、笑ってほしい。これは神話ではなく、ただの残業の記録だからだ。』
『そして読み終えたら、結論はあなたが書いてください。僕はもう、当事者なので。』
俺はしばらく、その三行を見つめていた。それから、顔を上げて言った。
「……一つ、俺からも報告があります」
「聞こう」
「俺、たぶん、あなたと同じ世界の記憶があります。前世、『日本』って国で、社畜やってました。……手記を読んでて、ずっと思ってたんです。限界の経理部長も、サボりの営業も、ITを拒む窓際族も――全部、実物を見たことがあるって」
おじさんは、この日初めて、虚を突かれた顔をした。
数秒の沈黙のあと、眼鏡の奥の目を細めて、心底おかしそうに笑った。
「……道理で。手記へのツッコミの筋が良すぎると思っていたよ。血筋だけでは説明がつかないくらいにね」
おじさんは、監査報告書の様式を書いた黒板を指した。
「監査人の要件に、もう一項目追加だ。『両方の世界を知っている者』。……あちらの言葉を、こちらの物語に翻訳できるのは、この国で君だけだ」
「……買いかぶりすぎですよ。俺、ただの学生ですよ。権限も、武力も、魔法もない」
「僕もなかった」
おじさんは、即答した。
「僕にあったのは、前の世界で嫌々身につけた実務の知識だけだ。それでも国は作り直せた。……いいかい。歴史という穴を塞ぐのに、権限は要らない。必要なのは『記録』と『語り直し』だけだ。それなら、ペンを持てる人間なら誰にでもできる」
俺は、白紙のページを見下ろした。
夕陽で、紙がオレンジ色に染まっている。
「……何を、書けばいいんですか」
「様式は自由だ。ただ、監査報告書には最低限、二つの欄がある」
おじさんは黒板に向かい、チョークで二行、書いた。
『指摘事項』
『改善措置』
「まず、この国の何が問題なのか。次に、どうすればいいのか。……君が一年間、僕の授業と手記を読み比べながら感じてきたことを、そのまま書けばいい」
俺はしばらく、白紙を睨んでいた。
書きたいことは、あった。ありすぎて、渋滞していた。聖典と化したルール。失効しない規則。例外を許さない空気。「カイト様が定めたことだから」の一言で思考停止する大人たち。俺たちが生まれる前から敷かれていた、この国の息苦しさの、すべて。
でも、ペンを持って最初に浮かんだのは、不思議と、怒りの言葉じゃなかった。
浮かんだのは、下痢の兵士のためにトイレを作った男のことだった。石鹸を配った男。給与明細の控除欄に眩暈を起こした男。三百二十巻の引き継ぎ書を書いた男。王様に泣かれながら退職届に印を捺させた男。膨らまなかったパンを、原因分析せずに食べた男。
俺は、書き始めた。
『指摘事項:本王国の歴史は、事実ではなく神話として運用されている。その結果、人間が作った規則が「神の言葉」として凍結され、誰も見直すことができなくなっている。』
『改善措置:歴史を、神の物語から、人間の記録へ戻すこと。』
そこまで書いて、ペンが止まった。
改善措置が、抽象的すぎる。「歴史を戻す」って、具体的にどうやって? 王立学会に手記を提出する? 一学生の持ち込んだ古いノートなんて、鑑定にすら回してもらえないだろう。新聞に投書する? 不敬罪で終わりだ。
「……手段が、ないです。この手記が本物だって、証明する方法が」
「証明は要らない」
おじさんは、こともなげに言った。
「いいかい。神話に証明で挑んではいけない。証明と証明の殴り合いになれば、数百年の信仰のほうが必ず勝つ。……神話に勝てるのは、たった一つ。『もっと面白い物語』だけだ」
「……それって」
「そう。ガウェインが、身をもって証明してくれたことだ。物語は、法律より強い。なら、あの男の書いた神話より面白い物語を、こちらからぶつければいい。……三百年遅れの、反論書だよ」
「……物語?」
「そう。たとえば――」
おじさんは、芝居がかった仕草で両手を広げた。それは皮肉なことに、授業中の絶叫キャラの動きと、まったく同じだった。
「『聖人と崇められる伝説の英雄。だがその正体は、定時で帰りたいだけの三十代の社畜だった』……どうだい。証明は一切ないが、教科書より面白そうだろう」
俺は、呆気にとられて、それから――気づいたら、笑っていた。
そうか。誰も、これが「本物の手記だ」と信じる必要なんてないんだ。
物語として読んで、笑って、そして読み終わった誰かが、ふと思えばいい。
――ルールって、神様じゃなくて、疲れた人間が作ったものなんだな。
――じゃあ、俺たちの手で、作り直してもいいんだな。
その「ふと思う」が一人、また一人と増えていくことこそが、数百年かけて凍りついたこの国の氷に入る、最初のひびになる。
『改善措置:手記の内容を、一編の物語として語り直し、広く公開する。』
『物語の題名は――『異世界偉人伝』とする。』
書き終えて、顔を上げると、おじさんが手を差し出していた。
「報告書を。……最終承認は、僕の仕事だ」
おじさんは俺の書いた一枚を受け取ると、時間をかけて、二度読んだ。それから懐から小さな印鑑を取り出し、息を吹きかけて、報告書の隅に、とん、と捺した。
覗き込むと、それは伝説の勲章でも監査局の公印でもなく、どこの文具屋にでも売っていそうな、ただの安物の認印だった。
「……それ、が、最終承認印ですか」
「公的な印は全部返上したからね。今の僕にはこれしかない。……いいんだよ、これで。人間の書いた報告書には、人間の判子がよく似合う」
『サカザキ』と捺された、少し掠れた赤い印。
数百年分の重みなんて、どこにもない。それが、たまらなく良かった。
「さて」
おじさんは眼鏡を直すと、窓の外の夕陽を確認して、教師の顔に戻った。
「引き継ぎは完了。積み残しのタスクは、なし。……ということで、もう分かっているね? この後、僕たちがやるべきことは一つだ」
「……補講、とかですか」
「馬鹿を言うんじゃない」
伝説の救世主は、心の底から嫌そうな顔をして、カバンを掴んだ。
「下校時刻だ。定時で帰るぞ」
――その夜、俺は机に向かい、真新しいノートの一ページ目に、物語の書き出しを記した。
数百年前、疲れた文字で書き始められた記録の、その続きを。
『窓の外には、平和な街並みが広がっている。』
『かつての戦乱が嘘のように、人々が穏やかに暮らすこの時代の学び舎で、一人の男の叫びが響き渡った――』
ペンは、驚くほど軽かった。
なぜって、締め切りも、ノルマも、承認フローもない。これは業務じゃない。俺が、俺の意思で始める、最初の仕事だ。
それでも一つだけ、あのおじさんから引き継いだルールを、守ろうと思う。
どれだけ筆が乗っても。
今日も、定時で帰る。
【異世界偉人伝 〜伝説の救世主、その正体は定時で帰りたいだけの三十代社畜でした〜 完】
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ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
「異世界偉人伝」、これにて完結です。
トイレと石鹸から始まったおじさんの奮闘記が、まさか「物語で神話を監査する」話になるとは、書き始めた当初は自分でも思っていませんでした(笑)
キラキラの英雄カイト様と、死んだ目のおじさん。
最後まで読んでくださった皆さんはもう、どちらが本当の「救世主」だったか、ご存じの通りです。
もしこの物語を読み終えて、「ルールって、人間が作ったものなんだな」と、ふと思っていただけたなら――それがこの作品の、最後の監査報告書です。
ブックマーク・評価・感想、すべてが執筆の励みでした。
それでは、皆さんも。
今日も、定時で帰りましょう!




