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第13話:【聖域】神々が住まう不可侵の天界、その正体は究極の「租税回避地(タックスヘイブン)」だった

歴史学大教室。

黒板には、雲海の上に浮かぶ壮麗な白亜の神殿と、そこから地上を見下ろす美しき女神の姿が描かれていた。初老の歴史教師は、かつてないほど厳粛な声で語り始めた。


「皆様。魔王軍、そして神聖教会……地上の腐敗を次々と浄化したカイト様でしたが、真の黒幕は、我々の頭上にこそ存在していました」


教室の空気が、ピンと張り詰める。

魔王すらも手駒に過ぎなかった。すべての富と信仰を吸い上げ、地上を裏から操っていた絶対的な存在。それが、天界を統べる女神アストライアだった。


「天界! そこは地上のいかなる法も権力も及ばない『完全なる不可侵領域』です! 女神アストライアは、神殿の奥深くで世界のすべての祈り(富)を管理し、何人たりともその扉を開くことは許されませんでした。カイト様はついに、世界を救うため、神そのものとの最終決戦に挑むのです!」


クラスメイトたちは固唾を呑んで教壇を見つめている。神話の頂点にして、ファンタジーにおける絶対的な最終章。


――しかし。

 教室の最後列、窓際の席に座る俺の心は、熱狂する教室の空気とは裏腹に、極寒の深海へと沈んでいくようだった。

 かつてのように胃薬に手を伸ばすことはない。頭の中では一切の感情が排除され、ただ「数字」と「法律」という冷たい水圧だけが支配する、静かで恐ろしい思考領域へと足を踏み入れていた。


俺は、机の下の黒い手記をゆっくりと開いた。

そこには、神話の最終決戦などという熱い言葉は一切ない。ただ、世界の経済システムを裏で牛耳る「究極の金融の闇」への、冷徹な調査記録が記されていた。


『〇月〇日。魔王軍、そして教会……これまでの監査で追跡した巨額の不正資金の最終的な「逃避先」が、判明した。』

『資金は複数のダミーギルドを経由した後、最終的に地上の法(税制)が一切適用されない特別管轄区域……「天界」へと流れ込んでいる。』

『天界の正体は、法人税ゼロ、金融情報の守秘義務が極めて強い、典型的な【租税回避地オフショア・タックスヘイブン】だ。』

『神々が住まうとされる「白亜の神殿」の実態は、ひとつの小さな建物に何万もの法人の宛先だけが登録されている【ペーパーカンパニーの私書箱ビル】に過ぎない。』


(不可侵領域の天界の正体、ただの『法的抜け穴だらけのタックスヘイブン』じゃないか……)


世界のすべての富が集まる場所。それは神聖な信仰の結果などではなく、地上の富裕層や犯罪組織が、税金や監査から逃れるために資産を隠す「オフショア口座」の集積地だったのだ。


『そして、この巨大な資金洗浄と資産隠しのスキームを構築し、すべてのペーパーカンパニーの背後にいる実質的支配者ベネフィシャル・オーナー。それこそが、天界の管理者たる女神アストライアだ。』

『彼女を落とさなければ、地上の制度をいくらホワイトに整えても、富は永遠に外部へと流出し続ける。僕は有給休暇の申請書を机の引き出しにしまい、天界行きのゲートをくぐった。』


「皆様、ご想像ください!」

現実の教室では、先生が両腕を広げ、神々しい天界の情景を描写し続けていた。


「カイト様が足を踏み入れた天界は、幾万もの天使(神の兵)が守りを固める難攻不落の要塞でした! しかし、カイト様は剣を抜くこともなく、ただ一人、静かに女神の待つ玉座へと歩みを進めたのです!」


俺は手記のページをめくった。

これまでのカイトのおじさんなら、ここで「白金の監査令状」のような国家権力を振りかざし、マルサの実行部隊を突入させて一網打尽にしていたはずだ。しかし、この最終決戦に限って、その「いつもの手口」は通用しない。

なぜなら、相手は「地上の法が及ばない外国(天界)」であり、女神がやっていることは、天界の法律上は「完全な合法」だからだ。


暴力も、強制捜査も届かない。

互いにビジネスの頂点を知り尽くした者同士の、息の詰まるような「知的な交渉劇」が、今まさに始まろうとしていた。


「女神アストライアは、神々しい微笑みを浮かべてカイト様を迎え入れました。その背後には、いかなる武器も魔法も弾き返す『絶対不可侵の光のとばり』が輝いていました」


教壇の先生が、両手を胸の前で組み、慈愛に満ちた女神の姿を演じる。


「『地上の勇者よ、よくぞここまで辿り着きました』と女神は囁きました。『あなたのその類まれなる力、私の傍で使ってみませんか? あなたを神殿の新たな主として迎え、この天界の無限の光を、共に分かち合いましょう』と。それは、世界そのものの半分を差し出すという、究極の誘惑でした!」


クラスメイトたちが「ついに神様からのスカウトだ……」「これ以上の報酬なんて存在しないぞ」と息を呑む。


俺は、鉛筆を握る手のひらにじわっと滲んだ冷や汗を感じながら、手記の記述に目を落とした。

そこに記されていたのは、神々しい神殿での謁見などではない。白と大理石で統一された、極めて無機質で冷暖房の効いた「天界オフショアの最上階オフィス」で行われた、格上同士の静かなるトップ会談だった。


『天界の最奥。実質的支配者ベネフィシャル・オーナーであるアストライアは、巨大なマホガニーのデスク越しに、僕に紅茶を勧めてきた。』

『「優秀な監査官殿。あなたが地上でどれほど法を整えようと、ここでは無意味だという事は理解しているはずです。天界の法において、我々の資産管理は完全に合法。あなた方に踏み込む権限はない」』

『彼女の言う通りだ。主権が異なる以上、地上の令状も、査察部の強制捜査もこの場所には届かない。』

『「争うのはやめにしましょう」と彼女は洗練された笑みを浮かべた。「あなたを天界法人の『共同代表パートナー』として迎え入れたい。もちろん、あなた個人の口座も完全な匿名で用意します。地上のしがらみ(税制)から解放された、真の自由を手に入れませんか?」』


俺は、音もなく息を吐き出した。

賄賂の木箱を差し出してくるような、これまでの三流の悪党とは格が違う。

アストライアは、自分たちの絶対的な「法的優位性(管轄外)」を理解した上で、最もスマートで合法的な形で、カイトのおじさんを体制側へと取り込もうとしているのだ。

暴力も恫喝もない。ただ、究極の金融リテラシーと既得権益の壁が、分厚いガラスのように二人を隔てている。


「しかし! カイト様はその誘惑に一切耳を貸しませんでした!」

先生の声が、大教室の張り詰めた空気を切り裂く。


「カイト様は剣を抜く代わりに、懐から一巻の『万国を繋ぐ誓約の書』を取り出し、女神の足元へと静かに広げたのです!」

「するとどうでしょう! 神の権威を象徴していた『絶対不可侵の光の帳』が、音を立てて透け始めたのです! その向こう側に隠されていた、何万という偽りの富の在り処が、白日の下に晒されました!」


(万国を繋ぐ誓約の書……? 地上の法が届かないはずの天界に、一体どんな手段で……)

俺は、まるで天才チェスプレイヤーが盤面を支配する最後の一手を打つ瞬間を見届けるように、吸い寄せられるように手記の文字列を追った。


『僕は彼女の提案を丁重に断り、鞄の中から分厚い【国際条約の合意文書】を取り出してデスクの上に滑らせた。』

『「確かに、これまではあなたの言う通りでした。だから僕は、ここ数ヶ月間、地上のすべての国家、すべての管轄区域を駆け回り、一つの『国際的な枠組み』に署名させてきたんです」』

『「これは【共通報告基準(CRS:Common Reporting Standard)】に基づく、多国間情報交換の協定書です」』

『アストライアの余裕の笑みが、ほんのわずかに引きつった。』

『「地上に存在するすべての金融機関は今後、非居住者の口座情報を自動的に相手国へ報告する義務を負います。もちろん、天界にあるすべてのペーパーカンパニーの『実質的支配者』の情報も、例外なく地上の監査対象となる」』

『「口座の守秘義務(不可侵の光)は、今この瞬間をもって国際的に無効化されました。応じない場合、天界を経由するすべての取引に対して、地上全域で莫大な【報復的源泉課税(経済制裁)】を課すことで各国と合意しています」』


俺の思考が、一瞬だけ完全に真っ白になった。

そして、その後にやってきたのは、全身の産毛が逆立つような圧倒的な畏怖だった。


(絶対不可侵の光の帳の正体、ただの『多国間条約(CRS)による守秘義務の打破』だった……!!)


カイトのおじさんは、マルサを突入させなかったんじゃない。

天界の口座の秘密主義を剥ぎ取るために、地上のすべての国家を巻き込んで、新しい「国際ルール(税務条約)」そのものを一から作り上げていたのだ。


物理的な暴力など一切必要ない。

「法の壁」に守られている相手を倒すために、彼は「世界規模の新しい法」で相手の領土スキームを完全に包囲してしまった。


「自らが隠し持っていた『世界の富』を完全に包囲された女神アストライア! 彼女は初めて、その美しい顔に『敗北の恐怖』を浮かべました!」

先生が教壇を強く叩き、勝利の訪れを宣言する。


「カイト様の放った誓約の光は、天界のすべての宝物庫を凍てつかせ、女神の力を完全に封じ込めたのです! ついに、すべての黒幕が神の座から引きずり下ろされる瞬間がやってきました!」


クラスメイトたちが「やった!」「これで本当に世界が救われるんだ!」と、最終決戦のクライマックスに感極まって歓声を上げる。


俺も、いつものパターンならば、ここで観念した女神が王国に連行される結末を予測していただろう。

……だが、手記から立ち上る「空気」は違った。


カイトのおじさんの筆致には、勝利の熱も、いつものような「定時退社」を喜ぶ安堵もなかった。

そこにあったのは、途方もない徒労感と、ある種の諦念にも似た冷たい静寂だけだった。


俺は無意識に息を詰め、この歴史上最も偉大な「聖戦」の、あまりにも静かで、苦い真実が記された最終ページへと手を伸ばした。


「皆様! ついに誓約の光によって、天界のすべての宝物庫は封印されました!」

現実の大教室で、先生が両手を強く握り締め、勝利の興奮を全身で表現する。


「すべての力を奪われ、神の座から引きずり下ろされた女神アストライア! 彼女は自らの罪を認め、静かに首を垂れました! こうして、世界を裏で操っていた最大の黒幕は、永久に冷たい牢獄へと繋がれ、我々の世界に真の平和が訪れたのです!」


教室中から「うおおおっ!」「ついに完全勝利だ!」「カイト様、本当に世界を救ったんだ!」と、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こる。

物語のフィナーレにふさわしい、誰もが思い描く「悪の滅び」と「世界の救済」。


俺は、熱狂に包まれる教室の中でただ一人、静寂に沈みながら手記の最終ページに視線を落とした。

そこに記されていたのは、完全勝利でも、悪の滅びでもない。

ビジネスの頂点を知り尽くした者同士が交わした、あまりにも静かで、冷たく、そして「苦い結末」だった。


『国際条約(CRS)の合意文書を見たアストライアは、取り乱すことも、激昂することもしなかった。』

『彼女はただ、感心したように細く息を吐き、上品なティーカップをソーサーに置いた。』

『「見事です、監査官殿。多国間協定による包囲網。まさか地上の国々をそこまでまとめ上げるとは」』

『彼女は静かに立ち上がると、デスクの引き出しから、天界とは全く異なる紋章が刻まれた【見知らぬ国のパスポート(※非協力地域の永住権)】を取り出した。』

『「確かに、この天界タックスヘイブンにある法人はすべて凍結されるでしょう。ですが、資本とは水のようなもの。法というダムができれば、より低い場所……まだ条約に署名していない『次の隙間』へと流れ込むだけです」』

『彼女の姿が、転移魔法の光に包まれ始める。』

『「またお会いしましょう、カイト。この世界のルールが続く限り、私たちのゲームに終わりはありません」』

『僕が止める間もなく、彼女は自らの個人資産コアデータだけを抱え、遥か彼方の別の租税回避地へと、完全に合法的に高飛びしていった。コア資産は事前に条約未署名地域へ移していた。』


俺は、無意識のうちに息を止めていた。

暴力も、強制的な制圧もない。ただ、相手が自分より先に「法の抜け穴」へ移動しただけだ。

これまで圧倒的な実務能力で、どんな強敵をも「逮捕」や「社会的な死」へと追い込んできた無敵のカイトのおじさんが、初めて相手を取り逃がしたのだ。


手記の最後には、いつものような「定時退社」を喜ぶ社畜の言葉はなかった。

代わりに、誰もいない天界の最上階オフィスに一人残された彼の、静かで、どこか寂しげな独白が記されていた。


『窓の外では、主を失ったペーパーカンパニーのビル群が、凍結されて光を失っていく。』

『富の流出は止めた。これで地上の国家財政は潤うだろう。』

『だが、根本的な解決にはなっていない。』

『制度は変えた。だが“人”は逃げる。これは終わらない仕事だ。』


(制度は変えた。だが“人”は逃げる……)

俺は、その言葉の重みに、ただ黙り込むことしかできなかった。

カイトのおじさんは知っていたのだ。法やシステムをどれだけ完璧に構築しても、それをすり抜けようとする人間の「欲望」そのものを滅ぼすことはできないと。


無敵の監査官が、初めて味わった完全なる「引き分け」。

一瞬の緊張と、途方もない寂しさが、手記のインクから滲み出ているようだった。


「かくして! 魔王軍、神聖教会、そして天界! 消えた莫大な資金は、こうして王国の国庫へと無事に取り戻されたのです!」


先生が誇らしげに教壇を叩き、一つの大きな区切りを宣言する。


教室は再び拍手喝采に包まれ、生徒たちは満足げな笑顔を見せた。

だが、俺だけは違った。


(終わってなんかいない。アストライアは逃げただけだ)


俺は手記をそっと閉じた。条約外の地域へと逃げ延びたあの美しき女神は、今この瞬間も、世界のどこかで新しい「抜け穴」を作り出しているはずだ。逃げた女神の影が、未来の宿敵として、俺の心に冷たい爪痕をしっかりと残していた。


「さあ、皆様! これで莫大な『資金』と、魔王領という『土地』が揃いました!」

先生の弾むような声が、俺の思考を現在へと引き戻す。


「次回の授業では、いよいよこの国を立て直す巨大プロジェクト……『王土復興』の物語へと進みます! 立ち塞がるのは、歴史と権威を盾にする大貴族たちの『聖なる円卓』! 楽しみにしていてください!」

「次はついに大貴族との対決か!」「どんどんスケールがデカくなっていくな!」と、周囲の生徒たちは無邪気に目を輝かせて席を立つ。


俺はカバンを手に取り、静かに席を立った。あの「完璧な実務の鬼」であるカイトのおじさんが、巨額の予算と広大な土地が動く『公共事業』という名の底なし沼で、どんな血も涙もないコンプライアンスの刃を振るったのか。


逃げた女神への警戒を胸の奥にしまい込みながら、俺は次なる歴史学の大教室を後にした。

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