第3話 気まぐれのその先に
夜が、白んでいく。
東の空から朝の光が滲み出して、闇が薄れていく。
山を越え、川を越え、森を越えながら、ミルヴァーナは空を駆け続けた。
朝の光の中に、幾つもの街が目覚めていく。
煙突から煙が上がる。
鐘の音が響く。
市場に人が集まり始める。
眺めながら、通り過ぎた。
どこも、同じだ。
人族というのは、どこへ行っても同じように生きている。
朝が来れば目を覚まし、腹が減れば食べ、夜が来れば眠る。
遥か昔より、代わり映えのないその繰り返し。
ただ、それだけ。
変化のない日常。
(だが、悪くはない)
ゆったりと、しかし嫋やかに、そんな他愛のない日常の上を飛び越えていく。
陽が高く昇り、真上を過ぎ、少しずつ傾いていく。
長い一日だった。
陽が傾いた頃、一つの街が見えてきた。
空から見下ろすと、その街は他とは違った。
石畳の通りに沿って、きらびやかな建物が立ち並んでいる。
尖塔を持つ大きな建物、広い広場、噴水、色とりどりの旗が風に揺れている。
夕陽を受けて、街全体が橙色に染まっていた。
石畳の上を行き交う人々の服装も、先ほど通り過ぎた街々とは違う。
仕立ての良い上着。華やかなドレス。
宝飾品が夕陽を弾いて光る。
ミルヴァーナは、自然と街へと降りていった。
そのまま、空中に留まる。
豪奢な椅子でも据えてあるように、空中で優雅に腰を落ち着けた。
肘でも突くように、ゆったりと。婉然と、あたりを見渡す。
ミルヴァーナはゆっくりと意識を、街のあちこちへと向けていく。
商店の軒先には、見たこともない意匠の飾りが吊るされている。
焼き菓子を売る屋台から甘い匂いが漂い、子供たちがその前で騒いでいた。
石造りの教会の前では老人たちが立ち話をしている。
馬車が行き交い、御者が声を張り上げる。
噴水の周りで、若い男女が笑い合っていた。
どこも、穏やかな夕暮れの景色だった。
賑やかで、温かくて、どこか呑気な。
人族の日常というのは、いつ見ても同じだ。
それでも、なぜか飽きない。
そのとき。
「なんでっ!!」
少女の悲痛な叫びが響いた。
鋭く、高く。怒りと悲しみが入り混じった声だった。
意識が、そちらへと引き付けられる。
続いて、何かが床に叩きつけられる音がした。
乾いた、重い音。
視線が自然とその屋敷へと引き寄せられた。
街の外れに建つ、大きな屋敷だった。
手入れの行き届いた庭。
整然と刈り込まれた生垣。
重厚な門構え。
夕陽を受けた白い石壁が、橙色に染まっている。
品のある造りだった。
相応の家柄だろう。
その一角の部屋から、強い感情が漏れ出ていた。
怒り、悔しさ、そして――深い絶望。
人族の感情など、今更珍しくもない。
それでも、この密度は少し違った。
ミルヴァーナは吸い寄せられるように、立ち上がる。
「さて……」
トンッと空を蹴り、その部屋へと向かった。
扉をすり抜けた先に、少女がいた。
プラチナブロンドの髪が、乱れて肩にかかっている。
絹のドレスは皺だらけで、胸元の小さなブローチだけが、夕陽の中でぽつりと光っていた。
整った顔立ちは今、泣き腫らした目と震える唇によって、ひどく歪んでいた。
床に、本が落ちていた。
表紙が上を向いている。
見覚えのある題名だった。
寝台の上で、今日も読んでいたあの本。
断罪される令嬢の物語。
少女は部屋の中央に立ち、壁に向かって声を絞り出していた。
「なんで……っ!なんで誰も、私のことを信じてくれないの!」
声が裏返った。
拳が、胸の前でぎゅっと握られる。
両腕が震えていた。
「ただ、注意しただけ……っ。ただ、それだけなのに……何故……っ」
足が、一歩踏み出す。
そのまま壁に手をついた。
白い手のひらが、石の壁を強く押さえる。
「こんな……こんな屈辱……衆人環視の前で……あんな目で見られて……」
声が詰まった。
「このままでは、お父様、お母様に……家門にも……っ」
言葉が途切れた。
嗚咽が、代わりに漏れた。
少女はゆっくりと壁から手を離し、視線を落とした。
床に落ちた本を、じっと見つめる。
長い睫毛が、夕陽の光に縁取られていた。
その視線が床に落ちている本の上で止まる。
巷で人気の本。
平民出身の聖女と王子の恋物語。
震える唇が、小さく動いた。
「私も……あの本の令嬢のように……きっと、そうなる……そんなことになるなら……いっその事……」
少女は膝から崩れ落ちるように床に座り込んだ。
両手で顔を覆う。肩が、しゃくり上げるたびに揺れた。
プラチナブロンドの髪が、顔の両側に零れ落ちる。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
部屋の中が、橙色に染まっていた。
その光の中で、少女の頬を伝う涙が、一筋、光った。
ただ、眺めていた。
しばらくして、少女が動いた。
涙を拭う仕草もなく、ゆっくりと立ち上がる。
引き出しに手をかけて、開けた。
中から取り出したのは、小さな短剣だった。
細くて、刃渡りも短く、装飾が細部まで施された短剣。
それは、少女の父が護身用にとあつらえてくれたものだった。
少女はそれを、両手で静かに持った。
「お父様に……迷惑だけは……かけられない」
声は、もう泣いてもいなかった。
諦めた人間の声だった。
短剣の切っ先が、少女自身の胸へと向けられる。
「ほぅ」
ミルヴァーナは窓の外から少女を見つめていた。
止める理由など、ない。
人族の命などどうしようと、管轄外だ。
ただ。
床に落ちたあの本が、視界の端に映った。
断罪される令嬢の物語。
詰んでいない盤面で、自ら盤をひっくり返しもせずに断罪された愚かな令嬢の物語。
詰めが甘い。
まったく、もったいない。
まだ盤をひっくり返すことができると言うに。
「はぁ……まったく、もって、愚かな」
短剣が、胸元へと沈んだ。
その瞬間。
ミルヴァーナは、少女の体へと滑り込んだ。
外から入るのではなく、内側から包み込むように。
少女の魂を押しのけるのではなく、その奥へと静かに収める。
刃が皮膚に触れた刹那、傷は生まれなかった。
崩れかけた体が、ゆっくりと止まる。
短剣が、床へと落ちた。
カラン、と乾いた音がした。
「ふぅ……」
人間の体というのは、温かい。
心臓の鼓動。
肺が空気を取り込む感触。
指先に伝わる床の冷たさ。
精神体では感じられないものが、一斉に流れ込んでくる。
ゆっくりと、体を起こした。
慣れない感覚に意識を馴染ませながら、少女の記憶が流れ込んでくるのを待つ。
名前、家柄、父のこと、母のこと。
婚約者、これまでの経緯。
学園での出来事。
衆人環視の前で浴びせられた言葉。
婚約者の冷たい目。
一つ一つ、整理していく。
なるほど。
鏡台に、少女の顔が映っていた。
泣き腫らした目。
乱れたプラチナブロンドの髪。
震えの残る唇。
それでも今、その顔には泣く気配がない。
翡翠色の瞳が、静かにこちらを見返している。
少女の魂が、意識の深いところで眠っていた。
その眠りの中へ、そっと言葉を落とした。
「暫し、借りるぞ」
返事はなかった。
当然だ。
床に落ちた短剣を一瞥してから、視線を窓へと向けた。
夕陽が、地平の向こうへと沈んでいく。
空が赤から藍へと変わっていく、その境目に、最初の星が一つ瞬いた。
床に落ちたあの本を、もう一度眺めた。
盤を返すこともできず、断罪される令嬢の物語。
詰みでもないのに、諦めた令嬢の物語。
ならば、詰めを甘くしなければどうなるか。
口の端が、わずかに上がった。
「なるほど」
静かに、そう呟いた。
悪くない。
書類仕事よりも、ずっといい。




