第4話 夜に読む、令嬢の物語
静かだった。
床に落ちた短剣が、窓から差し込む薄い月光の中に沈んでいる。
カラン、と鳴ったその音が、まだ部屋のどこかに残っているようだった。
ゆっくりと、立ち上がった。
人間の体というのは、重い。
魔族の体とは、まるで違う。
魔族の肉体は強靭で、動きは軽い。
纏う力が、体の隅々まで満ちている。
しかし人間の体は違う。
息をするたびに、胸が上下する。
指先一つ動かすにも、妙な重さがある。
精神体のときはそれすら感じなかった。
重さも、温かさも、何もなかった。
これが、人族の体か。
悪くはない。
ただ、少し、鬱陶しい。
鏡台へと歩いた。
椅子を引いて、腰を落ち着ける。
鏡の中に、見知らぬ顔があった。
泣き腫らした目は、まだ赤い。
頬には涙の跡が乾いている。
プラチナブロンドの髪が、あちこちに乱れたままだ。
絹のドレスには皺が寄って、胸元のブローチだけが、月光の中でぽつりと光っていた。
しばらく、その顔を眺めた。
悪くはない顔だ。
整っている。
年の頃は十五、六か。
泣き腫らしていなければ、もう少し映えるだろう。
「さて……」
意識を、少女の魂が眠る場所へと向ける。
眠っているものは、抵抗しない。
記憶というのは、不思議なものだ。
精神体のときは強い感情に乗ったものしか流れ込んでこなかったが、体に入った途端に鮮明になる。
まるで書棚から本を取り出すように、好きな場面を開ける。
見たい場面を、選べる。
「見せてもらおうか、お主の物語を」
ミルヴァーナは、静かに少女の記憶の中へと入った。
最初に選んだのは、幼い頃の場面だった。
大きな屋敷の廊下を、小さな少女が駆けていく。
プラチナブロンドの髪が跳ねている。
翡翠色の瞳が、きらきらと輝いていた。
後ろから、男の声が追いかけてくる。
「ミルフィーナ、廊下は走らない」
少女は振り返って、にっと笑った。
「お父様、でも早くしないと花が散ってしまいます!」
父親が苦笑する。
母親が笑いながら後を追う。
使用人たちが、微笑みながら道を開ける。
温かい場面だった。
庭で花を摘んでいる。
その花を、母親に差し出している。
母親が目を細めて受け取る。
少女が、嬉しそうに跳ねる。
(これでは、ないか)
本の頁をめくるように意識を変える。
次は食事の席だった。
父親の隣に座って、背筋を伸ばしている。
向かいには、年配の女性が座っていた。
家庭教師だろう。
フォークの持ち方、グラスの持ち方。
肘の角度、背筋の伸ばし方。
一つ指摘されるたびに、少女は頷いた。
真剣な顔で、一度で覚えようとしている。
父親が、その様子を目を細めて眺めていた。
(なるほど)
愛されて育った。
礼儀は物心ついた頃から家庭教師に叩き込まれた。
怒られながらではなく、愛されながら。
だからこそ疑いもせず、それが当然になった。
(これでもないな)
場面を変える。
ミルフィーナが、両親と並んで立っている。
向かいには、三人の人物。
父親らしき男と母親らしき女。
父親は深紺の礼服に金の刺繍が施された肩飾りをつけ、母親は淡い銀灰色のドレスに真珠の首飾りを揺らしている。
その隣に立つ少年は、白を基調とした礼服の胸元に細い金糸の縫い取りが走り、背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。
少年は背筋を伸ばして、こちらをまっすぐ見ていた。
整った顔立ちに落ち着いた目をした年の頃十ほどの少年だった。
ミルフィーナが、深く礼をした。
「太陽の御威光、月の御慈悲、そして星の御輝きのもとに、ミルフィーナ・ティレット、謹んでご挨拶申し上げます」
声が、少しだけ緊張していた。
少年も、礼をした。
「ビルッシュ・ナルガートだ」
愛想はない。
短い言葉だった。
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
ミルフィーナの感情が、記憶の中に滲んでいた。
緊張。
そして、覚悟。
恋ではない。
好意でもない。
公爵令嬢として、婚約者として、きちんとやり遂げようという、静かな覚悟だった。
(ふむ、なるほど)
ミルヴァーナは思った。
この娘には最初から、王子への恋愛感情などなかった。
責務として受け入れた。
それだけだ。
意識を次へと向ける。
(ここ、か)
次に選んだのは、学園の場面だった。
同級生の少女だろうか。
食事の席だ。
フォークの持ち方が、少し違っていた。
「フォークはこのように持つのよ」
さらりと、言った。
同級生の少女が、頬をわずかに赤くした。
「……ありがとう、ミルフィーナ様」
少女の視線が揺れた。
ミルフィーナは気づかなかった。
すでに自分の皿に視線を戻していたから。
また次。
廊下で、後輩の令嬢に歩き方を注意している。
また次。
図書室で、本の扱い方を注意している。
また次。
一つ一つは、小さなことだった。
しかし、積み重なっていく。
(ああ、なるほど)
ミルヴァーナは思った。
この娘は、注意することを、善意だと思っている。
相手のためになると、信じている。
しかし相手は、そう受け取らない。
傷つく者もいる。
恥をかかされたと思う者もいる。
うるさいと思う者もいる。
ミルフィーナには、それが見えていない。
見えていないのではなく、考えていない。
公爵令嬢として当然のことを、当然のようにしているだけだ。
それが、澱のように積み重なった。
また意識を変える。
ある日の廊下だった。
ビルッシュの隣に、見慣れない少女がいた。
亜麻色の髪を緩やかに結い上げ、白いリボンをあしらっている。
学園の制服は丁寧に着こなされているが、どこか着慣れていない雰囲気があった。
柔らかな瞳。ふわりとした微笑み。
聖女だ、と周囲がざわめいていた。
ミルフィーナの記憶の中に、その瞬間の感情が残っていた。
驚き。
そして、敬意。
純粋な、敬意だった。
聖女というのは、特別な存在だ。
この国においても、世界においても。
ミルフィーナはそれを、幼い頃から教わっていた。
だから素直に、敬った。
場面が変わる。
学校の食堂。
少女とミルフィーナが向かい合って座っていた。
ビルッシュに頼まれたのだ。転入したばかりで慣れていないから、と。
それならばと食事に誘った。
ミルフィーナが、小さく眉をひそめた。
少女がフォークを持つ手が、少し違っていた。
肘が上がっている。
背筋も、少し丸い。
グラスを持つ指先も、どこかぎこちない。
食事の作法だけではなかった。
一つ一つが、貴族令嬢とは少し違っていた。
ミルフィーナが、囁いた。
「フォークはこのように持つとよいですわ。ご存知なくて当然です。早めに覚えておかれた方が、後々ご自身のためになりますわ」
少女が顔を上げた。微笑んだ。
「ありがとうございます、ミルフィーナ様」
その場は、穏やかだった。
しかし、食事後のことだった。
ビルッシュがミルフィーナに近づいてきた。
「アルミナに何か言ったのか」
声が、低かった。
「指導しただけですわ。マナーを覚えていただくのは、あの方のためでもありますし」
「彼女のことは彼女のペースで覚えていけばいい。お前が口を出すことではない」
「ですが、このままでは周囲の目が」
「もういい」
ビルッシュが踵を返した。
ミルフィーナが、その背中を見つめていた。
記憶の中に、感情が滲んでいた。
戸惑い。
怒りではない。
悲しみでもない。
純粋な、戸惑いだ。
何故怒られたのか、わからない顔だった。
善意だったのに。あの少女のためを思って、言ったのに。
また場面を変える。
また同じことが起きた。
今度は立ち居振る舞いについて、ミルフィーナがその少女に囁いた。
またビルッシュに冷たくされた。
また次。また次。
そのたびに、ミルフィーナの表情が少しずつ変わっていった。
戸惑いが、困惑になり。困惑が、諦めになった。
しかし注意することは、やめなかった。
やめなかったのは、悪意からではない。
これが正しいと、信じていたから。
公爵令嬢として、婚約者として、注意するのは当然のことだと。
その信念が、最後まで揺らがなかった。
そして、今日。
学園の廊下だった。
授業の合間の、人通りの多い時間。
ビルッシュが、ミルフィーナの前に立った。
「いい加減にしろ」
声が、廊下に響いた。
「お前はいつもそうだ。自分が正しいと思ったら、相手の気持ちなど構わず踏み込む。アルミナが何度傷ついたと思っている。婚約者として恥ずかしくないのか」
周囲が、静まり返った。
視線が集まる。一つ、また一つ。
哀れみの目、好奇の目。
そして、冷たい目。
ミルフィーナは、口を開かなかった。
開けなかった。
喉が、締まっていた。
傷つけるつもりなど、なかった。
ただ、よかれと思って。
ただ、それだけだったのに。
ビルッシュが踵を返す。
その隣に、あの少女がいた。
伏し目がちに、しかし確かにこちらを見ていた。
周囲の視線が、しばらくミルフィーナの上に留まった。
誰も、何も言わなかった。
それが、一番、堪えた。
(なるほど)
ミルヴァーナは、記憶の中から静かに出た。
部屋は暗かった。
月の光だけが、窓から細く差し込んでいる。
燭台に火がついていない。
立ち上がり、燭台へと歩いた。
軽くパチンと指を鳴らす。
ポッと燭台に火が灯る。
橙色の光が、部屋を照らした。
床に落ちた本が、光の中に浮かんだ。
拾い上げた。表紙を眺める。
平民出身の聖女と王子の恋物語。
この本の令嬢は、断罪された。
詰めが甘かった。
手はいくらでもあったのに、ただ俯いていた。
ならば、この体の令嬢は。
整理する。
ミルフィーナは悪意がなかった。
それは確かだ。
しかし相手への想像力が、欠けていた。
それが積み重なって、悪役令嬢という像が出来上がった。
作ったのは誰か。
一人ではない。
ビルッシュも、あの少女も、周囲の者たちも、全員が少しずつ積み上げた。
意図的かどうかは、わからない。
しかし盤面は、詰んでいない。
なのに、この娘は諦めた。
プライドを傷つけられ、周囲の冷たい視線を浴びて、それだけで折れた。
折れてしまった。
物語の令嬢のように。
燭台の光の中で、口の端が上がった。
「さて」
静かに呟く。
「明日から、少し動くか」
窓の外で、星が瞬いていた。




