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第11話 その包帯の下には


 1


 時間が、止まったような気がした。

 私が固まっている間、柏木くんは目を逸らして顔を赤くしていた。芳樹くんはニヤニヤしながら、柏木くんの横腹を突っついている。

「その……変な言い方しちゃっただけで……そうじゃなくて……」

 やっとそれだけ言えたが、その言葉はあまりにも言い訳じみていて、我ながら呆れた。

「あ、分かってるよ。そうだよね、うん、分かってる……」

 自身を納得させるかのように言う柏木くん。けれど頬の赤みは残ったままだった。

「そうだ、俺、用事あったわ。めっちゃ大事な用事が今出来た。だから帰るよ」

 芳樹くんはエスプレッソを一気飲みし、柏木くんの返事も待たずに車椅子を漕いで踵を返す。

 こんなときに二人きりにするなんて……。

 分かっている。芳樹くんの行動の真意、あれは――。

 残された私と柏木くんは、視線を交わそうとせずに俯き続けた。お互い手をもじもじさせて、足ももぞもぞさせて……。沈黙がしばらく続いた。

 最初に口を開いたのは、柏木くんの方だった。

「……今度、一緒に出かけない?」

 その言葉に私は柏木くんを見た。彼は眼鏡をかけ直す。

「連れて行きたいところがあるんだ。少し電車に乗って行くところだけど、大丈夫なら付き合ってほしいな」

 彼の気遣いが嬉しかった。私はにこりと笑いながら、「ありがとう。行ってみたいな」と言った。私は、可愛い笑顔を作れているだろうか――。こんな風に笑うのって、いつぶりだろう。

「柏木くん、もう家に帰ったの?」

 ずっと気になっていたことを訊くと、柏木くんはバツが悪そうに笑った。

「うん。あれから三日後には帰ってた。ずっと家出たままじゃいられないって分かっていたけど、限界は思ったより早くて。藤原さんの言う通りだったよ。もっと効果的な方法にしないとね」

 その言葉に、私は胸を撫で下ろした。問題は何も解決していない。柏木くんの家庭は今も大変だろうし、彼の辛さは少しも和らいでいないけれど――。

 柏木くんが遠くに行かないでいられることに、たまらなく安心したんだ。



2


 八月七日の朝。

 姿見の前で着せ替え人形のごとく、色々な服の組み合わせを確かめる、一人の少女の姿があった。

 すなわち、柏木くんと待ち合わせをしている私だ。

 スカートの丈や、バッグと服の色合わせを何度も確認した。

 別にデートじゃないんだから―と否定したくなったが、二人きりで出かけることはデートと何ら変わりがないのだ。

 地に足が付いていないかのような浮遊感に包まれたまま、家を出る。

 母は見送りに来ることもしなかった。

 通信高校へ編入したい旨の話をしてから、私は母と最低限しか口を効いていない。

 時間の経過で怒りは薄らいでいた。それはきっと母も同じだろう。

 かといって、問題は全く解決していないのだ。

 やがて二学期が始まるのを考えると、みぞおちがずしりと重くなるのを感じた。二学期が来て、やがて高二になり、高校卒業して大人になる……それは酷く先のように思えて、愛だの恋だのにうつつを抜かしている間に迎えるのだろう。

 けれど病気で苦しむ時間は永遠のように思えた。

 そんなことを考えているとせっかく浮き足立った気持ちが褪せてしまうので、私は静かにかぶりを振った。

 そして、陽光降り注ぐ夏の朝へ足を踏み出した。


 3


 今日、ちゃんと伝えようと思っていた。

 中途半端になってしまった『仲直り』。それがただ仲直りしたいだけじゃないということを―伝えたかった。

 そんなつもりで伴奏者になりたいと口にしたわけじゃないのにな、と心の中で苦笑する。

 でも、それでいい。

 自分の気持ちをはっきり伝えたかった。

 その先の展開をこっそり期待しつつ、少しだけ怖い気持ちもありつつ―。

 どこかで自分に自信があった。

 柏木くんと出会ってから、自分に自信を持てるようになってきた。

 彼は、私と出会って何かが変わったのだろうか。

 ううん、私は、今の柏木くんが好きだから、変わらなくていい―。

 待ち合わせ時間より大分早く着き、私はホームのベンチで足をぶらつかせていた。

 待っている時間は酷く長く感じた。

 それは気のせいではなくて―待ち合わせから三十分経っても彼の姿は現れなかった。

 LINEしても既読すら付かない。

 薄墨のような不安がじわじわと心に流れ込んでくる。

 待ち合わせ時間は合っている。何か悪いことを言った覚えもない。

 そして待ち合わせ時間から一時間が過ぎた。

 額からは汗が溢れ出ており、ハンカチはもうぐっしょりだ。手のひらの汗を拭い、遠くを見つめる。

 私とデートなんて嫌だったのだろうか。

 でも、彼は何も言わずにドタキャンするような人ではない。

 なら、どうして―?

 声にならない叫びは、照りつけたアスファルトに滲んで消えていった。


 4


 スマホが鳴ったのは、待ち合わせから二時間後のことだった。

 知らない電話番号からだった。

 一瞬躊躇いながらも、よそ行きの声を作って電話に出る。

「あ、もしもし、悠真の母ですけど」

 硬質な低い女性の声に、背筋にぴりぴりと電気が走ったかのような緊張に襲われる。

「実は悠真が事故にあって―」

 その瞬間、いつもの日常が崩れ落ちる音が耳の奥で聞こえた気がした。発作を起こす度ヒビが入る音が聞こえた日常が、ガラガラと一気に粉砕されたようだった。

「大丈夫なんですか。怪我は」

 自分の声帯は、思ったより冷静な声色を奏でていた。人は驚きすぎると逆に冷静になるという話は、都市伝説じゃなかったらしい。

「命に別状はないけど、顔が……」

 お母さんはそこで言葉を切る。私は柏木くんが入院している病院を聞き出し、スニーカーの紐を縛り直して駆け出した。


 柏木くんの入院先は大学病院だった。

受付を済ませ、走り出したい衝動を抑えながら彼の病室へ向かう。

 歩きながら、自分のせいだと何度も心奥で懺悔した。私とこの日あの時間に待ち合わせをしてなければ、事故に合わなかったはずだ。

私が、柏木くんに怪我をさせてしまったんだ。

 震えそうになる身体を鼓舞した。病室の扉に手をかけ、唾を飲み込む。目をつむりながら扉を開けて、ゆっくりと目を開いた。

 柏木くんの顔に巻かれた包帯――。

 包帯で覆われたのは、右目だった。

「柏木、くん……」

 私の声に彼は、

「その声は、藤原さん?」

 と言った。

 彼の左目は濁った光を宿し、視線が宙を舞っていた――。

 

 

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