第10話 呼吸の狭間で、君に触れた
1
傷付けたくて、傷つけたわけじゃなかった。
ただ――苛立ってしまっただけ。
私は、勉強が出来る。自他ともに認めると言ったら自惚れに聞こえるかもしれないが、偏差値がそれを証明してくれている。
だから、頭のよさを周りの人の力だと言われると腹が立ってしまった。
いや、実際には自信がないだけなのかもしれない。勉強が私の自己肯定感を高める、唯一のツールだった。だからこそ、他人に否定されると胸の奥がズキズキとした。
実際塾には通っていた。いや、通わせてもらっていたと言った方がいいのだろうか――。
全てが自分の努力のおかげと言いまではしないが、私の力なのは間違いなかった。
あれから一週間。
私は、柏木くんと一度も連絡を取っていない。
2
柏木くんとのトーク画面を何度も開いては、スマホを閉じる毎日だった。
あまりにしんどくなって、紗奈にLINEをした。
紗奈は私を同じ班に入れてくれてから、少しずつ、友達に戻りつつあった。
元々友達を辞めたつもりはなかった。ただ、私の方が避けてしまっただけ。
パニック発作を目の前で起こしたときの、紗奈のあの反応。
それ以上傷付きたくなくて、私は彼女との間に鉄の壁を建てた。
でも彼女は私の後ろの席になってから、時々話しかけてくれた。
ある授業中、トントンと肩を叩かれて冷や汗を手で拭ってから振り向くと、口をへの字にした紗奈がこちらを見ていた。
「最近、きつそうだね」
肩で息をしているのがバレてしまったのだろう。恥ずかしかった。今すぐ逃げ出したかった。
――このとき、パニック発作を起こしていた。
彼女は次の瞬間いきなり手を挙げ、
「先生っ、頭痛いんで保健室行ってもいいですか?」
と言った。教卓で教科書を音読していた樋口先生は一瞬眉をしかめたあと、「あら、大丈夫? 行ってきなさい」と心配げな口調で言った。
「はい。藤原さんが保健委員なのでちょっと連れてってもいいですか?」
その言葉に、私は小声で「え……?」と口にした。
『いいから』
紗奈は口をそう動かす。
「え、まあ、いいけど……」
樋口先生が戸惑い混じりにそう言うや否や、紗奈は席を立って私の手を取った。
その手の温もりを、私は一生忘れないだろう。
紗奈が私を助けてくれたその日から、私は時折自分から彼女に話しかけられるようになった。
だから――夏休みの今でも、私は紗奈に連絡をとれるのだ。
そして、彼のことを話す勇気も持てた。
『仲良い他校の男子がいてね、その人と喧嘩みたいに前なっちゃって。私は謝りたいと思えない。でも、仲直りしたい』
文面にしてみたら背中がむずがゆくなった。
これって、そういうことじゃん。
気付かないふりをしていたけど、薄々分かっていた。
私は、柏木悠真くんのことが――。
どうしたら仲直り出来るか尋ねた私への返事は、至極シンプルなものだった。
『謝らなくてもいいから、もう一度会って話せ。そしてついでに告れ』
その返事を見た瞬間、私は「無理だって 」と呟いてクッションに顔をうずめた。
もう一度会って話すなんて、告白なんて、そんな――。
けれどこのままではいけないことは分かっていた。
彼と連絡を取れなかった一週間、私は家でも息が苦しくなるようになっていた。
精神疾患にストレスは大敵だ。
だから、自分の健康のために連絡を取るのだ。ただ、それだけだ――。
そう自分に言い聞かせ、私は柏木悠真の名前をタップした。
今日は、スマホを閉じることなくメッセージを送信出来た。
『柏木くん、明日、会えますか?』
――健康のためのはずなのに、いつもの発作より心臓がバクバクした。
送った瞬間、送らない方がよかったかもと後悔した。
けれど、既読が付くのを待っている自分もいた。
3
あのとき二人で行ったカフェで、待ち合わせした。
ジャズの音楽が流れる中、私は水で口を濡らす。店の中はキンキンに冷えており、足先が凍えていた。
ストローを弄んでいると、ドアが開く音がした。
「ごめん、遅れちゃったね」
振り返って、驚いた。
柏木くんの背後に、車椅子の影。
――芳樹くんが、いた。
「お、藤原さん。久しぶり〜」
芳樹くんは手を上げ、器用に座席の隙間をすり抜けてこちらに来た。
「いきなりごめんね。やつが一人で行けないっていうからついてきてやったんだ」
そう話す彼の後ろから、気まずそうな顔をした柏木くんがゆっくり歩いてきた。
扉から吹き込んだ熱風が、足元の冷えを和らげてくれる。
「すみませーん、椅子ひとつどかしていいですか?」
芳樹くんが店員に声をかける。
店員は彼をちらりと見て、快く了承した。
柏木くんが椅子をどかし、空いた空間に車椅子が入る。私はさりげなく目を逸らした。
「こういうときはシャキッとエスプレッソだよなー」
そう言ってエスプレッソを注文する芳樹くん。柏木くんと私は目を合わせた。前に二人でブラックは飲めないという話を、彼は覚えていたのだろう。そう考えたから、私は気兼ねなくコーヒーフロートを頼むことが出来た。
テーブルに置かれたコーヒーフロートに、私は沢山ガムシロップを入れた。
「悠真はさ、勉強苦手なんだよね」
湯気が立つエスプレッソをすすりながら、芳樹くんが言った。
「こいつ、通信だからって気ぃ抜きすぎなんだよ。本当に空気読めないよな〜」
そこで言葉を切って意地悪そうな笑みを浮かべる彼の横で、柏木くんは苦そうな顔をしていた。
「……ごめんね、柏木さん。あのときの柏木さんの気持ち、ちゃんと分かってなかった。……自分の弱さを認めることが出来なかったんだ。何度もLINE送ろうとしたけど、勇気が出なくて。許してもらえなかったらどうしようって、そればかり考えてた」
柏木くんの素直な言葉に、私は居心地の悪さを感じた。私ばかり意地張ってて、今すぐ顔を覆いたい気分だった。
でも、LINEを送れなかったのは彼も同じだったんだ。
「……私こそ、言い方きつくてごめん。もっと冷静でいられたらよかったんだけど、カチンときちゃって。返事もしないで電車で帰っちゃってごめん」
グラスを両手で包みながらそう言い、目を伏せた。すると「藤原さん――」と深刻そうなトーンで名前を呼ばれ、私は恐る恐る顔を上げた。
柏木くんが、不意に眼鏡を外した。
一見変わらないように見える右目と左目。しかし、よく見れば左目だけわずかに視線が逸れている。
柏木くんは、初めて弱視だと伝えてきたときと同じように、右目を片手で隠した。
「――僕、左目がほとんど見えないから、藤原さんの顔が見えづらいときがあるんだ。だから、なるべく人の左に立つようにしているんだけど――。あの日はつい、右に座ってしまって。だから、藤原さんの細かい表情が見えなかった。それは何の言い訳にもならないけど……そんなに怒らせたって、気付かなかった。だから無言で帰ったときびっくりして、あのときが、僕にとっての『世界の終わり』だった」
私の『世界の終わり』が頓服を落としたときなら、彼の『世界の終わり』は、私が無言で帰ってしまったことだったんだ――。
私は、ちゃんと伝えないといけないと思った。自分の気持ちを、自分の言葉で。
「私――嬉しい」
にこりともせずに言うと、柏木くんの右目はたじろいだ。
「柏木くんの世界の終わりが『そこ』でよかった。だって、それは終わらないもん。――私は、終わらせないよ」
そう言い切ってから、私は口角を上げる。
「仲直り、しよ。私は、柏木くんが弱視で大変な世界の、伴奏者でいたい」
芳樹くんがヒュウっと口笛を吹いた。
柏木くんの左目を隠していた手がすっと下がり、頬が赤らむのが見えた。私はそのとき、自分がとんでもないことを言ってしまったと気付いた。
――これはもう、ただの『仲直り』じゃ済まないのかもしれなかった。




